お大の方由緒の地、武人の足跡も。
亀城公園で。後方の十朋亭は、大正5年に大野介蔵が士族会員の会合場所として造った。昭和47年に石田退三の寄付を受けて改築された。(❶)
JR・名鉄刈谷駅周辺の賑わいから離れて、西へ約2km。境川を渡れば知多半島である。その手前、なだらかな丘陵地一帯に亀城公園があり、お大の方由緒の地、椎の木屋敷跡もある。
桜の名所としても知られる亀城公園は、刈谷城本丸跡中心に位置している。刈谷城は天文2年(1533)に築城された。背後に海をひかえた堅城だった。今年は築城から480年になる。
江戸時代になって、水野勝成を初代藩主として9家22人の譜代大名が刈谷城に在城していた。城外近くにあった椎の木屋敷は、徳川家康の生母お大が岡崎の松平広忠に離縁された際、一時期暮らしたといわれる。そんな歴史の流れを心にとめながら、この一帯を歩いてみよう。刈谷の武人たちの足跡を知ることもできる。
本丸跡の石碑。(❷)
亀城公園にある豊田佐吉の胸像。(❹)
松本奎堂の歌碑。「君か為 命死にきと世の人に 語りつきてよ 峯の松風」とあり、辞世の句である。奎堂は天保2年(1831)、刈谷藩で漢学と軍学の師である松本印南の次男として生まれる。京都で尊皇攘夷派と親交を持ち、38人と挙兵する。これが天誅組(てんちゅうぐみ)で、奎堂はその3総裁の1人であった。(❸)
刈谷市郷土資料館前で。昭和3年に亀城小学校本館として竣工。大切に受け継ぎ、昭和55年から郷土資料館として利用されている。表現主義建築(建築のデザインに自由さを持ち込んだ)の第一人者であった大中 肇(当時刈谷在住、現在の熊本県天草市出身)の設計。当時としては珍しいRCコンクリート造りの小学校だった。平成11年には国の登録文化財になっている。(❺)
館内の廊下を歩く。建築の自由な発想、職人たちの丹精な仕事を味わうことができる。
毎週土・日曜と祝日は「はたおり体験」もできる。親子づれにも好評。小さいおり物は約20分(100円)、大きい物は約40分(200円)で作れる。
椎の木屋敷と地続きに平成の庭があり、市民の憩いの場所に。お大の方の像(左)もある。(❼)
この上の高台に椎の木屋敷があった。
文礼館跡の石碑の前で。土井氏が西尾藩主であった時に藩士の子弟教育に設立されたのが前身という。土井氏は刈谷に転封後も藩校を開いた。(❻)
市原稲荷神社。白雉4年(653)亀狭山に瑞兆が現われ、その地に社殿を創立したのが始まりという。本殿の脇より出た大きな石の玉が稲荷の玉として祀られている。この玉に触れた参拝者が子宝に恵まれたとか、病気が治ったとか、諸願成就の石の玉として知られる。(❽)
知立東浦線の街なかに宍戸弥四郎の碑がある。宍戸弥四郎は天保4年(1833)この地に生まれ、江戸で兵学を学んだ。その後、各地を巡り勤王の志士と交流を深めた。文久3年の天誅組の乱に合図係りで参加している。(❾)
東海紙袋さんの入口には防災用の用水の容器や馬穴が置かれ、道行く人の視線を集めている。戦時中に使っていたもので、今では貴重な地元産の用水土管(文字入り)。ブリキの馬穴が江戸時代風に積まれている。(❿)
ひときわ目立つ創業140年の看板と店舗。十念寺向いにある市川呉服店は明治4年の創業。もともと武士だったが、廃藩置県で武士をやめ、呉服店を始めた。現在の市川裕大社長は6代目になる。当初は、お城の町口門の所で店を構え、肴町、本町など同地が商業の中心地だった。昭和48年、現在地に店を移したが、ここはもともと武家屋敷だったところで、元の屋敷に戻ったことになる。(⓫)
十念寺。刈谷藩主土井家の菩提寺で、平安時代末期頃の作といわれる阿弥陀如来が本尊。藩主土井利祐や土井氏親族の墓のほか、幕末の天誅組総裁・松本奎堂、俳人・中島秋挙の墓がある。(⓬)
※この記事は2013年01月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。