家康公の生誕から幼少期を巡る


岡崎城天守閣

 平成27年(2015年)、徳川家康公薨去四百年という記念の年に、平和国家の礎を築いた徳川時代を再考し、その知恵を未来の日本、世界へ発信する「家康公四百年祭」が年間を通して、生誕地である岡崎をはじめ静岡市、浜松市で開催される。岡崎市でも例年以上に家康公に関わるイベントが盛大になるという。
 今回の歴史散歩は、徳川家康公にスポットを当て、生誕から足跡を巡る旅とした。第一章は、産土神である六所神社、誕生地岡崎城、幼少期に学問に励んだといわれる法蔵寺を訪ねた。次号の第二章では、大樹寺・山中八幡宮・伊賀八幡宮・滝山東照宮を巡る。


家康公の産土神、六所神社


六所神社拝殿


 1542年12月、家康公誕生の折に産土神として拝礼したという、家康公誕生と関わりの深い六所神社。慶長7年(1602)には家康公よりご朱印状が下され、石高六十二石七斗を贈られ、同9年社殿造営の上、御神器お品々を下されたと由来にある。六所神社は、松平初代親氏が六所神明を当地へ移し、国家安全、子孫繁栄を祈願したといわれている。
 五万石以上の大名だけが許されたという石段を登ると、極彩色の楼門、その奥に社殿がある。松平氏の産土神として代々崇敬が厚く、華麗な彫刻や色彩はいずれも江戸時代のもの。昭和51年に日光東照宮と同じ手法によって修復工事が行われ、建立当時の美しさが再現された。本殿・幣殿・拝殿・楼門・神供所は国の重要文化財に指定されている。


石段の下から上を見る。この石段から先は五万石以上の大名だけが許された。

六所神社楼門


石段を登ると楼門があり、その奥に本殿がある




1542年、岡崎城にて生誕


産湯の井戸

 岡崎城は、享徳元年(1452)から康正元年(1455)にかけて三河守護代大草城主、西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城した。
 家康公は、天文11年(1542)、父松平八代広忠、母於大の長男として岡崎城内天守閣西にあった坂谷の産屋で誕生した。この年が寅年で、生まれた時刻が寅の刻(午前4時頃)であったため、幼名の竹千代とあわせて寅童子という愛称で呼ばれていたという。
 産屋に隣接した産湯の井戸が現在も残っている。家康公が産湯をつかったのがこの井戸から汲み上げた水。この水と合わせて、松平発祥の地である豊田市松平町の松平郷館(現松平東照宮)からも産湯の水が運ばれた。
 その後家康公は、わずか三歳にして母於大と生き別れることになる。於大の父である刈谷城主水野忠政が病のため逝去すると、後を継いだ兄信元は、今川氏を見切り織田方に転じた。今川氏から疑念を持たれることを恐れた広忠は、信元と絶交し、於大と離縁しなければならなかった。
 そして家康公が4歳の時、父広忠は、今川方に与する東三河の有力大名、田原城主戸田氏の真喜姫と再婚。竹千代に継母ができた。その後、三河における織田の勢力が拡大し、松平氏一族にも織田方に通じる者が現れた。広忠が今川義元に援助を乞うと竹千代を人質に求められ、家康公が岡崎城を離れたのは6歳の時だった。


竹千代石像

家康公銅像


家康公と本多忠勝を祀った龍城神社


天守閣に隣接する龍城神社

天守閣に隣接する龍城神社は、東照宮と映世神社を合併した社で、祭神は徳川家康公と本多忠勝公の2柱。当初は、岡崎城内本丸に東照宮が祀られ、その後、忠勝の直系忠粛が城主の時、三の丸に移転し家祖である忠勝を合祀した。


幼少期、学問に励んだ法蔵寺


法蔵寺本堂

 法蔵寺は、家康公が幼少の頃、手習いや漢籍などの学問に励んだと伝えられる寺で、硯箱・硯石・手本・机・墨付小袖・破魔弓など家康公幼少期の品がある。境内には、六角堂開運勝利観音・東照権現宮・家康ゆかりの御草紙かけ松・おてならい井戸・お手植えの桜などの文化財も多く現存している。
 御草紙かけ松は、家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから永く人々に親しまれてきた。代々受け継がれてきたが、平成17年に虫害により枯れた。その後、慣れ親しんだ松を後世に伝えようと、地元有志の手により平成18年に四代目の松が植樹された。
 桶狭間の合戦後、家康公はこの寺に守護不入の特権を与えるなどして優遇したという。山腹には新撰組隊長近藤勇のものと伝わる首塚がある。


法蔵寺山門

御草紙かけ松


取材場所
六所神社・岡崎城・法蔵寺 Google Map
参考サイト
岡崎市観光協会
http://okazaki-kanko.jp/