西尾市一色町出身の日本芸術院会員である山本眞輔氏は、これまでに数々の受賞をされている日本の彫塑家の第一人者です。山本氏はどのような気持ちで彫刻をはじめたのでしょうか。素晴らしい発想はどこからやってくるのでしょうか。山本氏のアトリエにてお話しをいただきました。

山本先生は西尾市一色町ご出身ということですが、いつ頃まで一色町におられたのですか。

私は一色町で生まれて一色町で育ちました。西尾高校でしたから高校まで電車で通っていました。それから東京へ出て、その後イタリアに留学しました。

イタリアへ留学しようと思ったきっかけは何だったのですか。

私の勉強していることは西洋彫刻です。日本だけではだめなんです。西洋彫刻をもう少し深めるためにどうすればいいかといったら、やはり西洋彫刻の発祥地であるイタリアに行かなければだめだということで留学しました。
 私の父親は絵の先生をやっていまして、西尾市立平坂中学校の校長先生をしていました。父親は今の愛教大で油絵を描いていました。だから私は小さな頃から油絵はよく見ていたし、ちょっと器用だったんでしょうね。自分の一生で自分の好きなことをやりたい、ということで美術を選んだわけです。この道に進んだきっかけとして、大きな感動とかドラマチックなものは何もありません。
 大学で美術を専攻する際、皆に反対されました。学力的に行きたい大学が選べるのに、どうして美術の道に進むのかと。それが最近になってやっとわかりました。美術では生活していけない、だから皆が反対するわけです。生活するためにはこういう学校へ行って就職が有利な学部へ行った方がいいと。
 ただ、私は自分のやりたいと思ったことをやっただけなんです。私がここに生まれてきたのは何のために生まれてきたのか。やりたいことをやるために生まれてきたのではないのか。だから美術の道を選んだ。生まれて死ぬだけでは嫌だと思ったんです。

早い段階から美術をやろうと決めていたのですか。

最終的に進路を決めたのは高校3年生です。西尾高校の普通科で、しかも1年から3年生までずっと進学組。テストでの順位でクラスが決まります。高校時代は、そんな熾烈な戦いをやっていました(笑)。だから美術の道に進むなんてまったく思っていませんでした。
 私は、一生を通して何かやることはないかと一生懸命探していました。小さな頃からちゃんと肥やしをやって、自分の体できちっと覚えていかなければ一流にはなれません。歌や踊り、ピアノの世界にしてもそうだと思います。美術もそうなんです。だから、まだ柔らかい時期に美術というものに対して非常に理解があるような、そういう環境にいれば子供の中でそういう才能が芽生えてきて育つんです。うちの父親は多分、それを見ていたと思います、私の中に。

山本先生が日本の彫刻家としてトップレベルまで突き抜けてきたのはいつ頃からなんですか。

日本芸術院会員になった時からで、私の場合は60代後半くらいです。その頃から何か様子がおかしいぞ、と。だんだん孤独になってくるんです。友達がいなくなってくる。逆にいえば、競争相手がいなくなってくる。それまでは、自分くらいのレベルの競争相手はいっぱいいたわけです。

モチーフや発想は、突然降ってくるんですか。

私が何かをやりたいと思うことは、私もやろうと思うんですけれど、私を通して誰かがやらせている。私の王様か、神や仏とはいわないけれども、私のなかにいるスーパーパワー。私にしかできないことをこの世の中に、たとえば彫刻を。「こういう彫刻が世の中に必要だからお前がやりなさい」といって誰かが私に命令している。それをたまたま私がやりたいことだといってやるのだけれど‥‥私は誰かに動かされている、働かされている。何か、私にそういうことをさせてくれていることが、私の発想になっているわけです。だから、何かを見てこれをやろうというようなことを思うのではなくて、ふっと頭に浮かばせてくれるんです、何かのチカラが。何かを作ろうと思うときは、それは私が発想したのではなくて、私にそう思わせるようにしてる何かがいる。私はそう思っています。

最初から彫刻を器用にできてしまったのですか。

それを意識したことはないです。

芸術は、なくても生きていけると思うのですが、でも私は必要だとずっと思っていました。山本先生はどのようにお考えですか。

お金にならないことはやらない、という考え方があります。しかし、ちゃんとしたバランス感覚を持った人を育てなければいけない。偏っているんです。そのうちに大学のコースに彫刻がなくなるかもしれない。芸大もいらなくなるかもしれない。怖いです。
 私は西尾市や一色町をはじめ、全国へ話しに行きます、講演をします、授業をやります。ですがそこで、彫刻家になれとか絵描きになれということは一言もいったことはありません。ただ、こういう世界でこんなふうに頑張っている人がいる、ということを自分の目に焼き付けておいて欲しいといっています。そうすると、その人が親になった時、自分の子供に、そういうことには興味がないということではなくて、人間の中にはこういう世界もあるんだよということを知らせるチャンスだけでも作れます。
 今こうして言葉でお話ししています。でも言葉ですべてをお伝えすることができてしまったら、私は仕事をしなくてもいいわけです。私は彫刻さえやっていればいいんです。本当は喋らない方がいいんです(笑)。そういう意味では、彫刻というのは私の言語だと思っています。言葉はその時に消えてしまいますけれど、彫刻は私が死んでも残ります。作品が私に代わって喋ってくれているわけです。自分の言いたいことを言って、好きなことを制作するという方が私には合っていると思います。だからあまり喋ってはいけない。喋ると誤解がある。言葉で言えないから制作するわけです。
 私よりも上手い方はいっぱいいるんだけれど、評価されていないということがあります。それについて少しお話ししたいと思います。私はよくカラオケに行きます。歌い終わると点数が出るものがありますよね。100点を取る人が歌が上手くて世の中の皆さんが感動するのかと言ったらそうはいかない。下手な人の方が面白い。そっくりに歌っても面白くも何ともないんです。僕らも一緒です。100点を取らなくてもいい。30点でもいいから人を感動させるものが欲しい。だから私たちがいるわけです。テクニックだけを覚えてもしょうがない。
 私、最近ちょっと思うんです。たとえば音楽で、音痴と言われる人がいる。美術でも美術音痴なんていう人がいる。そうなると、その人は音痴のところで生きようと思わないで、別のところで生きた方がいいわけです。そういう意味で私は、美術なんてものはある意味での「感覚」、持って生まれた感覚というのはあると思います。同じ歌を歌っても、ものすごく人を感動させることができる人っていますよね。涙を流して喜んでくれて素敵でしたという評価をいただける人。一方で、上手いですね、あなたには敵いませんという評価で終わってしまう人。評価としてはどちらがいいんでしょうか。やはり持って生まれたものを大事にしたいなと私は思います。

彫刻はご自身の言葉だと山本先生はおっしゃいました。展覧会に来てくださった人のなかで、なんとなく空気で作品と会話してくださっているなと思われることはあるんですか。

ありますよ。先日、古川美術館財団設立30周年記念展として私の個展「山本眞輔 彫刻60年の軌跡」をやらせていただきました。来館者のなかに、ものを言えなくなってしまう人がいる。泣いている人もいる。一人の人間が自分の一生涯かけてやってきて、今ここでみなさんに私の言いたいことはこういうことなんです、言葉では言えませんので作品で見てくださいと並べた時に、説明しなくても人の心の中にズバッと入っていけるものがある。言わなくてもいい。説明もいらないんです、そういう方には。個展をやらせていただいてよかったなと思っています。

その人も自分では何を求めているのかわからない、でも、知らず知らずのうちに求めているんですね。

それがアートだと思います。


「いのち巡る」
平成25年、第45回日展出展作品。平成26年に西尾市へ寄贈


インタビュアー
maru(神田 葵)さん
maru(神田 葵)さん

1984年、西尾市生まれ。心を和ませる“和心”を丸い形に馴染ませながら唄をうたい、絵を描き、独創的な世界観を体現している心の表現者。
http://www.aoien.info