伊藤公洋さんは高浜の窯元「丹鏡窯」の五代目であり、幼い頃から焼き物にふれながら育った。美濃焼に興味を持って美濃の師匠に師事。志野に魅せられてその美を追求し、昨年秋には菊池ビエンナーレに入賞した。日本工芸会の正会員。
丹鏡窯の五代目とのことですが、ずいぶん長い歴史ですね。
明治の初めに初代の善之助が、先代のやっていた料理旅館から焼き物へと家業を変えました。善之助は初代山田常山にロクロの指導をしたと、常滑市誌に書かれています。三河の知人に招かれてロクロを教えに来たことから、三河土に魅せられて、常滑からこの界隈に移り住んだという話です。
もとは常滑だったんですね。
そうです。二代目の長治郎はロクロ師として中国や当時の朝鮮にも指導に行ったと聞いています。三代目が私の祖父・正春です。戦時下で生活は苦しく、晩年には茶道具や釉薬を作るなどして、丹鏡の名で広く知られるようになりました。丹鏡が亡くなった後にこの窯を丹鏡窯と命名したのは、私の父である四代目・月香です。父は若い頃から祖父に「これからは絵が必要だ」と言われて絵の修行をし、絵付け鉢で高い人気を得ています。ネットオークションでは偽物も出回るほどです。
偽物が? すごいですね!
今も小鉢に花鳥風月や山水を染め付けする小品盆栽を手掛けています。
先生が五代目になられるわけですね。いつから作陶を始められたのですか?
家業としてやるようになったのは10代後半からですね。もちろん小さい頃から遊びでロクロをいじっていましたし、やりたくないと思いながらも焼き物にふれてきました。しぶしぶ家業に就いて間もない頃、碧南の画廊から三代の陶芸展をやらないかというお話をいただき、私にはまだ作品など作る力量はなかったのですが、とにかくコーヒーカップやら何やらを作って展示したんです。そしたら売れたんですよね、これが。お客さんは祖父や父の名の下で買ってくださったんでしょうが、その時の私はそんなことも分からず、おっ、これは儲かる仕事だと思ってしまいました(笑)
じゃあ、それからどんどん作品づくりをしていったのですか?
いえいえ、祖父は釉薬、父は絵付けと専門分野を持っているが、自分は何を目指すのかと考え、日本の焼き物を勉強しようといろいろな本を見て模索した結果、美濃焼、ことにその中でも焼き物の王様と言われる「志野」を学びたいと思うようになりました。ほどなくして知人の紹介で、美濃の安藤日出武先生のところで修行できることになり、親元を離れて新しい世界へ飛び込んだわけです。岐阜県重要無形文化財保持者の先生で、この先生に付けば自分も立派な陶芸家になれると思いました。
修行は大変でしたか?
そりゃもう!(笑)実家でやっていたことなど何の役にも立ちませんでしたね。同じ作業を果てしなくやるんですが、全く安定しないし時間もかかる。筒状の花生をひたすら作り、最初はどう頑張っても1日80個。修行していくうちに300個ぐらい作れるようになりました。銘々皿などは1日に1000枚ぐらい作りましたね。手取り足取り教えてなどもらえませんから、先生の仕事を見て盗むしかありません。雑用も多く、作業は本当にきつくて、1ヶ月で10㎏も体重が減ったほどでした。すべてそうやって覚えていったわけです。
厳しい世界ですね。やめたくなりませんでしたか?
何度も挫折しそうになりましたよ。やめていった先輩たちもいます。でも、当時はバブル景気真っ盛り。作れば売れる時代でしたから、頑張れば稼げるようになるという夢を持ち続けて自分を励ましていました。先生の仕事を手伝った後は自分の作品を作るんですけど、翌朝仕事場に行くと、ほとんど壊されている。その繰り返し。どこがダメなのか思い切って聞いてみると、私の作品は先生のコピーだと。真似をして同じようなものを作ればほめてもらえると思っていたんです。返す言葉がありませんでした。
それでも自分の作品を作り続けたんですか?
そうです。正月休みを利用して、初めて自宅のガス窯で志野を焼いてみたのは二十歳の時です。大失敗でしたけどね(笑) 思うような緋色が出せずに終わったものの、はじめて自分で焼いたときの貫入の音が、まるで新しい生命の産声のように聞こえたことが忘れられません。その時の感動が、現在に至るまで私の心を突き動かし続けています。
独立されたのはいつですか?
10年経ってからです。28歳になっていました。地元の高浜へ戻って作品づくりに邁進しましたが、すでにバブルが弾けて久しく、あんなに作品が売れていた時代は煙のごとく消え去っていました。それでもせっせと作るうち、お客様からの「師匠の作風と似ているね」という言葉が胸にグサリと突き刺さるようになりました。結局私の目には師匠の志野しか映っていなくて、もっと広い視野を持たないと自分の志野など生み出せないことに気づいたわけです。
そこから作品づくりへの姿勢が変わったということでしょうか?
自分の志野を真摯に追求するようになりました。私の場合、近年はやはり釉薬の追求です。祖父も釉薬と向き合いましたし、師匠は一つの志野に対し一つの釉薬を極めて作品を作るという形で極めますが、私は一つの器の中に幾つもの釉薬を入れることに挑戦しています。土も複数用います。3種の土を使い、6種の釉薬をかければそれだけで非常に複雑な色を生み出すことができます。昨年秋の第8回「菊池ビエンナーレ」展で奨励賞を受賞した「志野彩紋盤」という作品はそういった試みが評価され、令和という新しい時代の、新たな力のある志野と言われました。今はもっと試行錯誤を繰り返してこれをより深めていくことを、自分のテーマとしています。
写真を拝見しただけでも本当に素敵ですね。審査はどのように行われるのですか?
第一次審査は画像なんですよ。大きなスクリーンに映して審議され、ここで大半が振り落とされます。第二次審査で初めて作品を見ていただきます。入賞する作品はほんの一握りなので、私も本当にびっくりしました。アーティスティックな要素の強い公募展で、これからの陶芸について考える刺激的な機会となっています。
伝統的な技だけではない、新しい視点や発想が求められるわけですね。
新しい発想と言えば、私は最近まで4年間に渡って、ある高校で陶芸を教えていたんですよ。でも教えるばかりじゃなくて、高校生の斬新な発想に驚いたり、勉強させられたりもしました。中にはずいぶんユニークなオブジェを作る生徒たちもいて、結局彼らは芸大に進学しました。
面白いですね! ところで先生は作陶そのものを楽しんでいらっしゃると思いますが、ご趣味とかあるんですか?
そうですね、もともと伝統文化に関心があるので、時間があれば家内と一緒に神社仏閣を巡って御朱印集めしてますね。苦しいときの神頼みとかも兼ねて(笑)以前は新四国巡りをやってました。そういう場でねぎらってくれる人がいたりして、様々な人間性に触れるのがいいですね。いろいろな場所を巡ると、風景が目に飛び込んでくるし、風を感じたりもする。陶器は土という自然のものでできています。自然のイメージを取り入れながら作品を創るのが私のコンセプトなので、そうやって歩くひとときは貴重です。
やっぱりすべてが作品づくりとつながっていくわけですね!
※この記事は2020年04月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。