筒井裕子さんは、歴史的建造物(文化財など)のプロジェクトで活躍したり、女性建築士ならではの視点で住宅設計に取り組んだり、まちづくりプロジェクトに携わったりと、常に前向きに多彩な活動に挑み続けるエネルギッシュな女性だ。

建築に興味を持ったのはいつ頃ですか?

小学校低学年の頃からだったと思います。高学年になる頃には和風建築に関心を持つようになりました。古い神社・仏閣とか、昔ながらの町家とか。

小学生の頃から!?すごいですね。

それには理由があるんですよ。この場所はわが家の代々の土地で、当時は江戸時代中期からの田舎家が建っていました。今だったら価値を考えますけど、その頃はただ古いとしか思えず、子どもとしては新しい家に住んでみたかった。だから新しい家に関心を持ったんです。親が集めたカタログや住宅雑誌を夢中で眺めていました。子どものくせに変に詳しかったです。

ユニークな子どもだったんですね。

建築士仲間にもそう言われました(笑)。でもそういう家で育ったので古いものに違和感はなく、その後も心の中ではずっと古い建物が好きだったのだろうと思います。

いつから建築家を目指すようになったのですか?

決めたのは高校時代、大学を選ぶ時です。当時私には2つの選択肢があり、ずいぶん迷いました。家族は建築にはどちらかというと反対でした。

それはなぜですか?

ずっと音楽をやっていたから。物心ついた頃から歌っていて、楽譜も読めて、ピアノやフルートを習って、高校からは声楽の先生にも付いて…私自身も含めて誰もが音大に進学すると思ってましたが、最終的に建築に対する探究心の方が優りました。でも音楽を習ったおかげで、声楽の先生が喉や体をとことん気遣うように、プロフェッショナルとしての心構えを自覚させられた気がします。音楽でも建築でも、プロの厳しさは同じです。

音楽はその後も続けているのですか?

やってません(笑)。大学時代は吹奏楽部でピアノやフルートをやりましたけどね。

ところで古いご自宅はどうなったんですか?

あまりにも古くなって傾いてしまい、私が大学生のとき町内の別の場所に新しい家を建てました。

一級建築士の国家試験はとても難しいと聞きますが…。

資格がないとできない仕事なので、必死に勉強して合格するしかありません。最近は受験する女性が増えましたが、私の頃はまだごくわずかでした。最初に勤めた会社で「一級取れば男女も年齢も関係ない。取れば勝ちだ。頑張れ」と上司に励まされました。

独立されるまで、どこでお仕事されていたのですか?

卒業後、岡崎の設計事務所に勤めていた時、大学時代の恩師から歴史的な建造物を扱う東京の事務所を紹介されました。管理建築士を募集しているとのこと。大学で日本建築史を学んでいたのでお声が掛かったんです。それで東京へ行きました。その時に手がけた物件は、関東大震災後に沼田藩主を務めた土岐家末裔の子爵が東京に建てた洋館。沼田市に譲られることになったため、調査と復元設計を担当しました。横浜の昭和初期の外国人住宅の再利用計画などにも携わりました。好きなジャンルの仕事でしたが他のこともやってみたくなり、大きなビルなどを手がける事務所に移りました。そんな時に再び恩師から、文化財のプロジェクトをやってほしいという話が入ったんです。ちょっと迷いました。

どうしてですか?

経験不足であまり自信がなかったし、そのとき東京でやっていたスケール感の大きい仕事をもう少し続けたい気持ちもあったから。でも「こんなチャンスは滅多にない。誰でもできる仕事じゃない。できると思って声を掛けられたんだから、やってみるしかない」と知人に言われ、タイミングを逃したら駄目だと考えて、思い切って独立しました。

独立ですか! 怖くなかったですか?

怖くないといえば嘘になるけど、若くて物事をよく知らなかったので、今ほどは怖くなかったですね。

何歳の時ですか?

29歳でした。かつて開拓地だった福島県郡山市で明治初期に建設された開成館という建物があり、県の重要文化財に指定されていたのですが、それとほぼ同時期に建てられた開拓職員用の官舎や入植者住宅が新たに市の文化財になるということで、調査・復元設計・工事監理を行いました。屋根をめくりながら材料や施工技術を調べていくので、丸4年かかりました。郡山の人々にとってこれらはフロンティア精神のシンボルとも言うべきもので、文化財指定には大きな意義があります。この時に執筆した報告書を始め、日本建築学会に発表した論文はいくつかあり、そういった学術的な部門も私の得意とする分野です。


筒井さんは毎回物件の模型を作る


先ほど国家試験の話の際に少し女性のことが出ましたが、女性は少ないのですか?


愛知建築士会では現在約3700人の会員がいて、うち女性は290人程度。1割に満たないですね。でも最初は80人だったそうで、かなり増えたと言えます。女性委員会ができた当初は、悩みを共感し合う場としての役割も大きかったようですが、今は男性にない視点での企画力を発揮し、男女ともに視野を広げられるような活動をしています。

女性委員会主催でイベントを開催しているんですね。

はい、毎年やっています。建築畑でない人を招いてのセミナーや、女性建築士の作品展や、住まいの絵本の読み聞かせなど、住まいづくりを考える人たちに向けた楽しいイベントです。私は最初に女性委員会へのお誘いを受けた時は、女性の集団というものにビビって(笑)しばらくお断りしてましたけど、実際に加わってみたら、みんな何でもはっきり言い合うし、一度決まったら一丸となって取り組むし、すごくサバサバしていて前向きで面白いんですよ。トップもやらせていただいたし、日本建築士会連合会に4年間出向もしました。私としてはそろそろ地元での活動に本腰を入れたくなっています。まちづくり的なことへの関わりができたらなと思います。

今は女性委員会ではないのですか?

愛知建築士会が公益社団法人に変わってから、理事を4年やった後、今は常務理事を務めています。女性の役員は現在3人だけ。まだ少ないですね。

地元での活動というと、例えばどんなことですか?

住民主体の公園づくりの例を挙げましょう。計画から完成まで足掛け11年かかりましたが、地域住民が団結し自分たちで公園を作り上げました。私は建築家の立場で会の立ち上げから関わらせてもらいました。西尾市伊藤町の伊藤1号公園「つるしろふれんどぱーく」です。

住民が自分たちの手で公園を作ったんですか?

そうです。実際に住民参加で公園を作った他市町へ視察に行って勉強もしました。賛同者を集めるため、学校や幼稚園、PTAや子供会、老人会などに声がけして話し合いやふれあいイベントをやりました。でも人が集まって盛り上がっても、予算が付かないと作れません。だから企画書や模型を作って市長にプレゼンしました。10年もかかっているので、通算3人の市長にプレゼンしてます。長期戦で弱音を吐きたくもなるけれど、みんなで励まし合って頑張り抜いたおかげで、平成22年に素敵な公園が完成したんです。その活動が評価されて、国土交通大臣表彰「手づくり郷土賞」を受賞しました。

すばらしい活動ですね!

強い興味で建築の道に進み、今日まで走り続けて来ましたが、振り返ってみると、ずっとその「興味」「探究心」「好き」が私を突き動かしてきた気がします。若い頃はもう少し気負ったり尖ったりしていたけれど、今はもう少し大らかになったかしら。ゆったり構えるようになったと思います。

十二分にパワフルで圧倒されます!これからもご活躍ください。


つるしろふれんどぱーくの活動が本に!


インタビュアー
竹内 裕子さん
竹内 裕子さん

西尾市一色町生まれ。西尾市の生涯学習講座や、お寺ヨガなどのヨガサークルを毎週開催。ヨガを身近に、健康、喜び、充実感を得てもらえるようにお伝えしている。