平成29年7月に自然公園関係功労者として環境大臣表彰を受賞された筒井さん。平成6年から23年間、三河湾国定公園で佐久島特有の生態系の保護活動に取り組んできた。どのような気持ちで活動されてきたのだろうか。

環境大臣表彰受賞について今、どのようなお気持ちですか。

自分たちの島で誰かが自然公園指導員として携わらなければと、今では感じています。でも当時は「どうして自分が」という気持ちでした。23年前の平成6年、一色町役場の産業課に高校野球でバッテリーを組んでいた親友がいまして、彼から「2年だけでいいから佐久島の自然公園指導員をやってくれないか」と頼まれました。この忙しい時にやってはいられない、というのが正直な気持ちでした。私は佐久島で民宿を経営していまして、平成元年に借金をして宿を大きくし、さあ頑張るぞ!というとても大変な時期だったんです。結局、2年だけということで自然公園指導員を受けさせていただいたのが始まりでした。

2年という約束でしたが、23年間続けられたことについて、筒井さんのお気持ちに何か変化があったのですか。

平成8年、当時の大河内町長が、島の活性化について「ありきたりではダメだから、佐久島にアートを取り入れて、そこから活性化を進めていこうじゃないか」というプランを打ち立てられました。私たち島民は「そんなことで活性化できるのか?」という気持ちがありましたが、今後、島がどうなっていくのかということは何となく気づいていました。高齢化、人口減、過疎が進み、下手をすると学校がなくなってしまうかも知れない。いろんなことが頭をよぎりました。この活動に乗せていただくしかないということを正直思いました。同時期に、島の皆さんが役員となって「島を美しくつくる会」がスタートしました。その活動と並行して私の活動も進んできました。「島を美しくつくる会」との関係があったからこれまでやってこれたんだと思っています。
大河内町長の前、磯貝町長時代の話です。当時は島に観光施設やアートなどはまだありませんでした。「まずは山を一周できる散策コースを作ろう、海釣り公園を作ろう、海水浴場を作ろう」と、磯貝町長はいろんなことをされました。そのお陰で心地よく山歩きができるようになりました。けれども平成6年に私が自然保護委員を受け持った頃には、耕作放棄地や荒地がだんだん増えてきて、散策遊歩道は密林状態になっていました。一色町最後の町長、都築町長の時は「密林のように生い茂った大自然は自然ではない、やはり整備をした自然でないと」ということで、都築町長はよく一人で山を歩かれて「もっと綺麗に整備しなければいけない」と言われていました。

私は最近になって西尾市には佐久島というこんなに魅力的な場所があるんだということを知りました。その背景には、島の皆さんの目には見えない努力があったからこそ私たちが自然を楽しむことができるんだなと思いました。ところで、心が折れた時はありましたか。

活動のために仕事がおろそかになってしまうこともありました。そんな時「この活動をやらなければ」という反面「なんで私が」という、常に半々の気持ちでした。生活がありますから。でも「将来、孫のために繋がるんだな、これをやっておけば」そんな気持ちになるとスムーズにやれる、というところはありました。

見返りを求めてということでは続けていけないと思うんですけれど。

そうです。やはり初めからそれを望んではいけない。一人で山道を歩きながら、台風の後などに倒れている木をチェーンソーで切りながら、楽しくなくても「楽しいな」と思えば楽しいことなんです。「なんで私が」という考えにならないように、自分に言い聞かすしかない。そんな夜は一人でカラオケに向かって「今日は何を歌おうか」なんて過ごしてきました。



孫たち後世のために、という想いが今回の受賞につながったんですね。50歳までは葛藤して続けて来られたと言われましたが、50歳以降から今日に至るまで、気持ちの変化というのは。

50歳を迎える前、体がガタガタになりました。頚椎ヘルニアで腰にきて、今度はヒザが。「あなたは運動不足でこうなりましたよ」と病院の先生に言われました。「とにかく痛くても歩きなさい」ということで筋力を付け直さなければいけない。それまでは山道を自動車で走っていたのを「歩きながら」という作業に変わりました。
40代まで、自分たちは島の景色、朝日、夕日を綺麗だなと思ってはいけない、そんな余裕を持ってはいけない、そんな感じで私たちは育ってきました。なんていうのか、それが当時の島の男衆のあり方でした。島の生活は本当に大変なんです。その中でどれだけ楽しく生活をするか、そう思わなければやってきた価値はないと思うんです。
正直、市役所の方から大臣賞受賞の知らせを聞いた時「こんな私に?もっと大きな舞台で頑張られている人たちが表彰を受けるべきだ」という気持ちで、本当にびっくりしました。このような大臣賞に値することを私はやっていない、というのが自分の中にあった。

そこがとても素敵だなと思います。

今は、後継者ができるまではやるつもりでいます。自分たちの息子世代というのは人数が限られています。その世代にいろんなことを任せたら、それこそ大変なことになります。自分たち以上に苦しいことばかりが起きてしまう。そうすると「なんでこんな島なんだ」っていうことになってしまう。だから、少しでもそうならないように我々がね。

島の将来を考えてやって来られたんですね。

そこまで考えてはいませんでした。でも孫ができると違いますね。私の父親もそうなんですが、私以上に文化財保護委員だとかいろんなことをやって来ています。若い頃私は、父のやっていることにまったく興味がありませんでした。でも自分がその歳になると「自分も同じことをやって来ているんだな」ということを感じています。


インタビュアー
maru(神田 葵)さん
maru(神田 葵)さん

1984年、西尾市生まれ。心を和ませる“和心”を丸い形に馴染ませながら唄をうたい、絵を描き、独創的な世界観を体現している心の表現者。
http://www.aoien.info