昭和51年、西尾市のはずれに、わずか20坪弱の「スギ薬局」を開店。「町の相談薬局」として地元の厚い信頼を培ってきました。創業より保険薬局の認可を受け、処方せんに対応できる「調剤併設型ドラッグストア」のリーディングカンパニーとして積極的な出店を続け、今では全国に750店舗、正社員約4000名(平成22年8月現在)を数えるまでに。夫であり、現スギホールディングス会長(元スギ薬局社長)でもある杉浦広一氏を支え、副社長として共に経営に参加してきた妻杉浦昭子さん。今回は三河安城駅前に建つ本部ビルを訪ね、お話を伺いました。明るい笑顔と気さくな話しぶりが印象に残りました。

杉浦さんは幼い頃はどちらでお育ちになられたのでしょうか。

生まれも育ちも京都です。もう本当におてんばでした。父がサラリーマン、母は駄菓子屋さんをやっていました。小さい頃から店のお手伝いをしていましたので、大きな氷や牛乳ビンが20本以上入っている箱を自転車に縛り付けて運んでいました。だからすごく力持ちです。今でもリポビタンDですと50本入りを三ケースくらい平気で持ち上げちゃうんですよ。(笑い)

風情のある京都のまちを汗かきながら自転車をこいでいる女の子の姿が目に浮かびます。

母が一人でやっていたので、手伝うことが当たり前の生活でした。

大きくなったらこんなことやりたいな、というような夢はありましたか。

小学校四年生の頃でしたが、父が胃下垂という病気になって、胃を三分の二くらい取って、私は「もう死ぬんじゃないか」と思いました。私に対して医療関係に勤めてくれたらいいなという家族の期待がありました。自分でも医療関係に進みたいと思って。それで、理工系も好きでしたから薬剤師になろうと自然に思うようになりましたね。

ご両親から小さい頃、教えられたということはありますか。

自然に商売の中で、商売人は道の真ん中を歩いちゃダメとか、そういう商売人魂みたいなものは小さい頃から教えられました。父、母が共働きでしたから、家族みんなで支えるというのが当たり前だったという感じです。

家族全員で支えることが、だんだん大きくなったのがスギ薬局だったかもしれませんね。会長であるご主人様との出会いは、いつだったのでしょうか。

岐阜薬科大学で知り合いました。私が二年生、主人が四年生のときです。岐阜薬科大学は全校でも400人くらいで、入学式のときに学長がこの大学は学内生の結婚が多いんです、と言われたくらいです。50%以上です。私はそのとき、そんなふうにはならないぞと思っていましたが。(笑い)

ご自身が描く女性としての将来像、結婚観についてお聞かせください。

私は高校生の頃、クラス討論会で、「山内一豊の妻のような女性になりたい」と言ったことがあります。そのときは皆からひんしゅくをかいました。大学に入っても、初めてプロポーズしてくれた人と結婚しようという思いがありました。まだ19歳でしたが、知り合い、付き合い、卒業した年の秋、23歳の誕生月に結婚しました。


京都生まれで、おてんばでしたよ—と杉浦さん(右)

結婚されたあと、ご主人と今の会社を立ち上げられたのですね。

主人はプロポーズしたときから薬局をやると言っていましたので、結婚と同時にお店を開設しました。

西尾で薬局を始められたわけですが、当時の思い出は?

京都から来ましたので、主人のお父さんの三河弁が分からない。お客様も三河弁ですから、とにかく言葉が一番大変でした。お客様から「京都風三河弁だね」って言われて。(笑い)

西尾の印象は?

店を始めたところは、まわりがみんな田んぼでしたので、のどかなところという印象でした。

子育てと仕事の両立も大変だったでしょう?

二年目に子供が生まれました。子供は義理の母が「私が見る」と言ってくれましたので、創業から年中無休、朝七時から夜11時までずっとオープンしていたんです。最初は一日10人もお客様が来てくれればいいくらいでした。便利な店で、お客様から喜んでいただける店になろうと思いました。創業のときの目の前のたった一人のお客様を大切にするという心を忘れないようにと、今でも社員に言い続けています。

今となっては誰でも知っているスギ薬局ですが、さらに全国的に大きくされていくことに対して杉浦さんの思いはいかがでしょうか。

やはり500店舗、700店舗となると業務事項を徹底するのが難しいというのを実感します。創業当時の思いを社員全員で共有し、地域の皆様のお役に立てるお店を拡げていきたいと思います。

京都大学の医学研究科人間健康科学系専攻に「地域医療研究センター」を寄贈されましたね。

私たちは一つ一つの店が地域から信頼されて、地域医療を支える薬局になっていこうという思いで、ずっとやってきました。京都大学の先生から、これから地域住民みんなで高齢者を支えていくというシステムが必要だから、そういう研究をしていくセンターを作りたいと。その思いが私たちの思いと通じるところがありましたので、寄贈させていただきました。

障がい者の雇用にも力を入れていると伺いましたが。

お店で社員と一緒に働くというのは、非常に難しくて雇用率が上がらなかったんです。それで特例子会社を作って、社会貢献の一環としてやっていきましょうと。昨年六月に立ち上げ、一年間で34人もの皆さんを採用できました。私たちは障がい者それぞれの障がいを個性として捉え、その個性・能力を活かしながら、社会の中でいつも「笑顔」で働き、成長して欲しい。そんな願いから社名も「スギスマイル」と名付けました。今年四月には養護学校からの4人の新卒の人達が入社式で決意表明をしてくれたんです。その中の一人が「僕は定年まで働きたい」と言ってくれました。涙が出るくらい嬉しくて。我が子のように一人一人と目と目を合わせてお話しして人間関係を作る。みんな家族のような気持ちで接していく。そこから学ぶことも多いと思います。

これからの夢は?

地域で医療を支えていく薬局というのが絶対に世の中では必要です。欧米では薬剤師に相談するというのがまず最初なんです。そこから病院に行くかどうか判断する。調剤を併設したり、相談できるという薬局が日本にいっぱいできるのが一番いいと思っています。

ご夫婦で喧嘩なんかされないでしょうね。(笑い)

喧嘩はしますよ。でも翌日はけろっと。根に持たない、こだわらない。子供の前では絶対喧嘩しない。

健康法について教えていただけませんか。

一年半くらい前に、健康診断で「これ以上太っちゃダメ」と先生から言われて、息子達が誕生日にルームランナーを買ってくれました。おととしの12月から毎日一万歩歩こうと決めて実行し、一年後の検診数値は全部よくなっていました。やっぱり歩くことですね。

この地域の皆さんへのメッセージをお願いします。

三河気質というのが、すごく好きです。司馬遼太郎さんは忠義、それから実直さ、勤勉さみたいなもの、仲間意識、この三つが三河気質だとおっしゃっています。こちらに嫁いでから来年で35年になります。三河の皆さんには本当に親切にしていただいて、ありがたいと思っています。

いいお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

ありがとうございました。


インタビュアー
田中 ふみえさん
田中 ふみえさん

物語の語り部として、1993年より活動を始める。いのちの輝きをテーマに、様々なジャンルの語り作品を創作。上海万博上演作品に脚本を提供。NHK文化センター講師。西尾市在住。