ギャラリーもいい、美術館もいい。でも、何よりも日々の暮らしの中に、手書きの文字が、生彩を放ち、平成の「いま、ここ」に在る人の心にストンとわかってもらえる書を発信したいと、書家・丹羽勁子さんは、今日も元気だ。今は、「正しく美しい文字は、正しく美しい鉛筆の持ち方から」と、「手元美人運動」にも力を注いでいる。岡崎市竜泉寺町の教室に丹羽さんをお訪ねした。


 丹羽さんの子供の頃はどんなお子様でしたか。

 元気な子でしたね。学区内所狭しと出掛けて行って遊んでおりましたね。竹馬を作って、乗ったり、ビー玉、ゴム跳びとか、男の子ともよく遊んでいました。中学校の三年間は生徒会活動をみっちりやりました。高校時代は「バスケ命」でしたね。お蔭で筋力が鍛えられ、大きい作品を書くのに役立っているようですよ。(笑)

 書くのにはかなりの体力やエネルギー、筋力も要るのですね。

 大きい作品を書くのを子供達が後から見ていて「先生、足の筋肉すごい」って言うんですね。(笑)今も歩いたり、ストレッチをしたりしています。ハープを弾くときはどうですか。

 ハープは七つのペダルを右左の足で操作しながら弾いているので、身体を鍛えておかないと足がつってしまうんです。だから私も鍛えています。ところで、ご両親はどんなしつけを?

 私の家は、祖父の代からの左官業です。祖父母・父母・私達兄弟六人に、父の兄弟で十三人。住み込みの若い衆が三、四人、通いの職人さんが数人の大所帯でした。「お前達が食べていかれるのは、職人さんや若い衆が仕事をしてくれているからだぞ。みんなに感謝しなければいけないぞ」と、よく言われました。

 毎日生活していく中で教えて下さったんですね。

 十七人の大所帯でしたから、静かな空間が欲しいなと、早く家出したかったですよ。(笑)

 丹羽さんが初めて書道の筆を執った時のお気持ちは?

 小学校三年生の時、教頭先生が指導して下さって「大野さん、上手だね」と言って、丸を下さったのを覚えています。展覧会で賞をいただいたこともあります。でも、そんなに上手いとは思っていませんでしたね。

 本格的に書道家として進もうと思われたのは?

 「本格的に」と構えたことはないんですね。とにかく、家から離れたくて名古屋に勤めていたのですが、「円満家出は結婚にあり!」(笑)としておりましたので、そのために花嫁修業をいろいろしました。その中で「お華」と「書」が、なかなか手強かったんですね。書塾へは、知人の紹介で入門したのですが、そこが前衛書の塾だったんですね。「はい、創作しましょう」と言われても、そうは簡単には出来ませんでしたね。でも、ある時、ひゅっと解ったんです。あーこういうものを創ればいいんだなと。


 どんなふうに解ったのでしょうか。

 競書雑誌の「最優秀作品」に私が書いた創作作品がポンと載ったんです。ことさらに創意を働かせて考えたものではなかったのですが、「あー、こういうふうなんだ」と。それから元気になれたんですね。

 創作する時に、自分の中であたためて、さあっと、書かれるのですか。

 ハープも同じだと思いますが、「ド」と弾こうと思って「ドー」と弾いてしまった時に、「ドー」に合わせて次の展開が出来るかどうかですよね。筆を下ろした瞬間に、次への動きの判断ができるかどうかです。途中で、しまったと思ったらダメですね。瞬時の判断です。そしてもうひとつ、音楽の場合大切なものは「間」ではないですか。「ド」と「レ」の「あいだ」の音のない時が、どう生きているか。私の場合も、「黒い線で白を書く」という意識で書いています。「白が生きて、初めて作品になる」と思っています。

 書の修行で一番苦労されたことは?

 苦労?ほとんど感じていませんね。作品の見方に、師との大きな違いを感じて退めたということはありますが、これも若い人達のグループで一緒に充分勉強できるから大丈夫と思えましたからね。本も情報も沢山ある。気持ちさえあれば勉強は続けられる。先生なしでも大丈夫と。若かったですからね。

 自分を堪能して自由に生きる時間。丹羽さんには、すごく良かったんでしょうね。

 書を続ける上で、肩書きなんて要りませんね。書き続けられればいい。ノートルダム清心学園・渡辺和子先生に「置かれた場所で咲きなさい」という著書があります。膝を打つ思いの言葉です。勉強している人達との行き来もあるし、工夫と意欲で何とかなるでしょと。何とかするんですよね。ずっとそんな感じで来てしまっています。

 今までの作品の中で、印象に残っている作品とか、思い入れのある作品はありますか。

 創作することが面白くなって、使う材料や道具がどんどんエスカレートしていったんですね。公募展出品作品でしたが、黒い三尺六尺の紙に、金と銀のカラースプレーで平仮名で「やみ」と書いたんですね。「形・動き・線質・白も良し!出来た!完璧だ」と思って出品したのですが、落選しましたね。審査に当たられた先生から「書く=引っ掻く」でないと「あかん」と言われました。(笑)ああした冒険は個展でやらないといかんですね。(笑)私は手書きの文字が、絵や図柄のように暮らしの中に入っていって欲しいと思っています。これまでに百件程のことですが、お店の屋号やラベルを書かせて頂いております。2006年には安城「七夕まつり」と岡崎「大花火」のポスター、昨年は岡崎商工会議所創立120周年のメッセージ「次世代につなぐ。」を書かせて頂きました。そういう思い入れのあるお仕事をさせて頂けることは嬉しいことですね。

 沢山の方がそれを見てくれますからね。

 「特選です」「何とか賞です」とかよりも嬉しいですね。見て頂いた上に、メッセージを伝えるものになっているわけで、これが、私の生き方に合っているかな、と思いますね。

 ところで、音楽グループ「ガロ」の大野真澄さんは、弟さんですが、子供の頃の思い出とか、今も歌い続けている彼へのメッセージを。

 弟はみんなに可愛がられる人のいい子でしたね。でも自立心は旺盛で欲しいものは自分で手に入れるんだと、小学校四年生から八年間新聞配達をしていました。高校は愛知工業高校のデザイン科を受験すると自分で願書を出しに行きました。ビートルズの武道館公演のチケットも手に入れ飛んで行きましたしね。デザインの勉強のためにと上京した筈だったのに「学生街の喫茶店」がヒットして、いつの間にかそちらの世界の人になってしまいましたね。でも、私も家族も「ほどほどにして、正業に就かないとダメよ」と思っていたのですけどね。弟も、その場所で咲く努力を続けて来たのではないでしょうか。還暦も過ぎ、歌は昔よりいくらか上手くなったように思いますので(笑)、どうぞ聴いてやってください。

 これからどんな事に挑戦していくお考えですか。

 創作も、暮らしの中の書の仕事も、子供の教室も、手元美人運動も出来る限り続けて行きたいですね。足腰を鍛えてね!


インタビュアー
川島 憂子さん
川島 憂子さん

ハープ奏者。2歳より音楽の基礎、4歳よりピアノを始める。1997年、スコットランドでハープに出逢い、転向。名古屋を中心にコンサート活動中。第9回大阪国際音楽コンクール入選。西尾市在住。