岡崎市文化財保護審議会会長である加藤氏は、文化遺産を保護するということをどのように考えておられるのだろうか。地域の宝である文化遺産が将来的にどのようになっていくことが望ましいと考えておられるのだろうか。

 大学では考古学を専攻していました。私の学生時代は、日本の経済が高度成長期にあって、工場を作るなど次々と開発が進んでいた時期です。そうした中で、土地開発に伴って遺跡が壊されてしまうということが全国の至る所で起こっていました。
 たとえば、刈谷市に本刈谷神社貝塚という縄文時代晩期の有名な貝塚があります。この遺跡は昔から知られていたので昭和42年に愛知県の史跡として保存することになりました。これは良いことだと思っていたのですが、指定されてから2~3年後に、指定の範囲内に道路が造られてしまったんです。そこに道路を造るということは史跡を壊すということを意味しています。これはどういうことかと、びっくりしました。
 西尾市でも100基くらいの小さな円墳から成る、愛知県でも有数な古墳群があります。昭和35年、西尾市は条例に基づいて市の史跡に指定しました。ところが、そこには今、大きな工場が建っています。工場を作るために古墳群の一部が削られてしまったんです。学生の頃から、遺跡や史跡といった大切なものを保存・保護できればいいなという想いを持っていました。

 これまでにどのような活動をされてきたのでしょうか。

 大学院を出てから高校の教員になりました。教員を4年間勤めた時、県の文化財課で仕事をして欲しいという話がありました。不安でしたが、文化財の保存・保護を行うセクションですので、「重要な遺跡を残せたらいいな」という学生時代の想いが実現できるかもしれないという期待感もあって転勤しました。教育委員会のなかの小さな課で、学校の先生と県庁マンで構成されていました。そこで天然記念物や史跡、埋蔵文化財などを担当することになったんです。これまでは、外から「遺跡保存を!」と言っていたのに対して、今度は行政の中で自分がやることになりました。その時、自分なりに2つの目標を作りました。ひとつは、できるだけ多くの県指定史跡を作りたいという目標です。そうすれば史跡は条例で保護されますので、学生時代に見た古墳のようにはならずに将来に伝えていけると思ったからです。

 もうひとつは、県と市町村の文化財保護の体制作りです。特に遺跡の調査については行政が自立的に調査を進めていける体制を作りたかったんです。たとえば、遺跡がある土地を造成する場合には事前に発掘調査をしなければいけないのですが、その時、教育委員会に専門的に調査ができる人がいないと、結局は大学の先生などに頼んで調査することになります。そういう方達は、普段は先生ですから調査ができるのは学校が休みの日に限られます。当時はまだ週休2日制導入前でしたから、夏休みか冬休みまで待たなければならないこともあります。そうすると、その間ずっと工事ができませんので事業者が文句を言ってくる。やはり、専門的な知識を持った方が市町村に配置されて、その方が自信を持って文化財保護を進めていくというような自立的な体制を作りたいということを2つ目の目標として設定したんです。
 史跡に指定するということは、その土地に対して規制をかけるということです。「これから家を建てようとしても事前に調査をしないとダメですよ、平らにして畑にすることもできません」というように、私的財産に制限をかけるということになります。土地所有者のご理解をいただくということは本当に難しいとつくづく感じました。自立的な体制を作るといっても、専門的にやれる人が県にも市町村にもほとんどいなかった時代です。文化財だけやっている職員は役に立たない、何でもやれるのが市町村の職員だという雰囲気があって、なかなか前に進んでいきませんでした。体制を整えていくためには、まず自分たちのやるべきことの範囲を明確にしなければいけません。遺跡調査にかかる市町村と県との役割分担、どのように分担するのかということがとても曖昧だったんです。この体制を整備するのに10年ほどかかりました。

 文化財を守る前に、体制を整えることをやってこられたんですね。

 そうです。要するに、インフラを整備するというようなものです。西尾市には八王子貝塚という明治の頃から有名だった縄文後期の遺跡があります。そこはお茶畑になっていて自然のまま残っていました。ところがそこに道路を作りたいという計画が出てきまして、市の教育委員会の方が困っておられましたので調整に出ていって「こんなことをやったら大事な貝塚が壊れてしまう」と伝えて、道路を少し曲げさせていただいたこともありました。



 私が住んでいる一色町も掘ったら何か出てくるのでしょうか。


 私が西尾市の一色高校で校長を務めていた頃、グラウンドに野球のバックネットを作りました。コンクリートの柱を立ててネットを張る、その時はずっと立ち会っていました。そうしたら中世の遺物が出てきたんです。一色高校に当時、空き教室がありましたので、いちこう博物館という資料室を作って、出土した土器のカケラを綺麗に洗って説明を付けて展示しました。今でもいちこう博物館はあると思います。そういった遺物は、土地の歴史を考えるための具体的な資料なんです。たとえば、我々はいくつもの時間が累積されてきた結果、今を生きています。時間が累積されていくのが歴史なんです。それを具体的に示すのが遺跡であり遺物である、ということです。

 遺跡がここにあります、ということを皆さんにお伝えするということは、どのような意義があるとお考えですか。

 調査した結果を報告書として示す場合もありますし、市史のような書物で示すとか、現地に看板を立てたり、展覧会で説明を付けて展示したりします。それをご覧になられた方が自分で想像したり、その時代に想いを馳せるということが大事だと思うんです。遺跡を残すということにはリアリティがあります。現物を見て、その累積された時間のひとつのページを実際に見ていただくということが大事ではないでしょうか。
 文化財に指定されていない遺跡もいっぱいあります。皆さんが住んでいる町内のお宮さんや古いお寺も時代を超えて累積した「歴史の証人」です。それを直に見て考えるというのが大事です。たとえば、奈良や京都へ行くと非常に古い重要な建造物がいっぱいあります。それを見ると何となく気持ちが穏やかになる、心が休まる、ああ日本だなという想いを持ちますよね。そういう想いは有名ではないものを見ても生まれてくるのではないかと思います。それは、その土地に住んでいるということを大切に想いたいという気持ちにつながっていくのではないでしょうか。小林秀雄という文芸評論家が『無常ということ』という本のなかで「歴史というのは上手に思い出すことだ、思い出すことで自分は満ち足りた気持ちになった、しかし上手に思い出すことは難しい」というようなことを書いています。

 それはどういうことでしょうか

 大昔にそれを作った人、そこに住んでいた人の暮らしを想像することだと考えます。古いお寺さんだとかお宮さん、小さな古墳であっても、そこへ行った時にちょっとほっこりとするような気持ちを持っていただけるといいな、というのが文化財保護の基本であると思っています。
 岡崎市は今「歴史まちづくり」ということにチカラを入れて進めておられます。市役所にまちづくりデザイン課ができて、歴史的なものを整備したまち作りを進めておられます。観光的な観点というのももちろん大事なのですが、文化財保護というのは基本的に「まちづくり」だと思っています。現代の感覚で、あまり変えずに残していくということを、今岡崎市はやっておられるんです。岡崎市よりも前に歴史的なまちづくりをやられたのは犬山市です。そうすると、古い文化財と、今そこに住んでおられる人と、観光というのがミックスされた新しい満ち足りた空間ができるのではないかという感じがしています。歴史のある空間を共有するというのは、幸せの一種ではないでしょか。
 私が県庁に入った頃は、開発優先という考え方と、保護しなければいけないという考え方が対立的な雰囲気でした。新しい工場を作るのも、文化財を保護するのも、同じまちづくりのひとつだと考えればいいのではないかと思います。


インタビュアー
竹内 裕子さん
竹内 裕子さん

西尾市一色町生まれ。西尾市の生涯学習講座や、お寺ヨガなどのヨガサークルを毎週開催。ヨガを身近に、健康、喜び、充実感を得てもらえるようにお伝えしている。