東日本大震災を、「明日は我が身」と受け止めて、青森県から千葉県まで津波到達点を、千年の桜で結ぼう-このスケールが大きく、思いも深い「明日は我が身の桜ライン」を提唱、実践している黒田武儀さんって、どんな人? 一本一本の千年桜に託した願いは? 岡崎市額田から、山道をひたすら一時間走って、作手(新城市)の緑深い山中に黒田さんをお訪ねした。

<事業実績>いずれも総合プロデューサーとして


願いを込めた千年桜。被災地で植樹しました。

 「サンフランシスコ湾岸地域の超高層ビル群建設計画を廃棄して、既にある中低層倉庫群を生かした再開発計画の推進と実施」「イスタンブール全域の地域性を重視した都市再開発計画の立案と推進」「アメリカ合衆国における国家プロジェクトとしての“ダム建設の廃止”を推進する総合計画」「原子力発電所や化石燃料に頼らずに、エネルギー問題を解決するための国際総合計画」「湿原や沼沢などを環境保全するための国際総合計画」「過疎、高齢化、少子化対策としての、新潟県の中山間地の村に、日本一の規模をもつ“道の駅”を建設し、年間売り上げ35億円を実現」「民家を活用し、古材や地域の自然な材料を活用した“21世紀の民家”新築保全総合計画」「山の棚田の再生と保全」「明日は我が身の桜ラインで、東日本大震災被災地の、真の復興を実現する」

NPO法人BIO de BIO代表理事、夢千年の暮らしPRODUCE & DESIGN株式会社代表取締役、LEON BIKE ASSOCIATES株式会社CEO代表取締役
活動の拠点 愛知県新城市作手黒瀬字下山37-30

 黒田さんの桜ラインの発想と実行力に驚いています。

 僕が木と土の家を建てたり、マウンテンバイクのお世話をしたり、道の駅をプロデュースしたり、東日本大震災の被災地で飛び回っていたりと、何の脈絡もなく行動しているような感じですが、みな一つの幹から出ている枝に過ぎません。
 子供の頃からストーリー豊かに生きようと思っていました。人は「波乱万丈」と言うかもしれないけど。僕は十五歳から学生運動一筋。安保闘争、原子力潜水艦の寄港問題、成田の三里塚闘争とか、常に目の前に乱闘服を着て盾やガス銃を持ち、放水車を並べた機動隊がいる。誰かが死ぬような状況が生まれたら、真っ先に僕は手を挙げる、と15歳の時に決めたんです。

 その意志、行動力って、いつ、どこから出てくるのでしょう。

 僕は広島で五歳の時に原爆の洗礼を受けています。米軍の医者は治療はしない。被害と影響を調査してデータにするだけです。授業中にアメリカのMPが二人来て、スタンドアップ。そのまま検査を受ける。そのあとで、お前の被爆線量は人が千回死ねるくらいなんだ。十五歳まで生きたら奇跡だ、と言われた。
 以来ずっと、広島の原爆を生きている。あの時に死んでいると思えば、怖いものはない。何にだって、ノーと言える。世界中から原発を、原爆も、核兵器も、戦争も、差別も、何もかもなくしたい、と思い続けて、ずうっと生きている。経済活動をしていても、お金を儲けることに集中しないんですよ。だから家でも、とても評判悪いです(笑い)。東日本の被災地に、平気で一月に2回でも出掛けてしまうんですからね。

 山の中の暮しを選択されたのは、どうしてですか。

 帰国して鎌倉に住んでいたのですが、都市の暮しというのは、お金があればこその暮し。作る人がいる、生み出す人がいる、ただそれを買って生きている。そんな暮しを子供たちにさせるわけにはいかない。ここで家を建て始めて、井戸を掘ったら、100メートル掘るはめに。それも一分間にバケツ2杯しか出ない。我が家はあえて下水道に接続しない。自分が使った水の行く末に自分が責任を負う。土の中にはいろんなバクテリアがいて、いろんなものを分解してくれる。人間が配慮しさえすれば、水は驚くほどきれいになるということが分りました。お蔭で医者にいかなくてもいい体になっている。自分の治癒力を高めるということが最善の道だと、ここに来て悟りました。すると、物事の本質が自然に見えてくる。例えば、現代の医療制度は、矛盾に満ち満ちている。健康にする商売のはずなのに、病気にする商売をしている、というふうに。

 NHKテレビの「金トク」で、「山の棚田の再生」として放映されましたね。

 山の百姓には、水を守る、山を守るという仕事がある。山の田んぼが貯えている水の量は、ダムに匹敵する。洪水の時には、遊水池です。減反政策なんてとんでもない。番組では山の百姓がいなくなったら、日本は滅びるよ、ということを知ってほしかったんですね。

 アメリカの生活で得たものは? 帰国してからは何をされていたのでしょうか。

 アメリカで20年、シンクタンクにいたので、世界の国々が何を求めているか、大国、特にアメリカ合衆国が何をしたがっているのかとか、読み取れる立場にあった。日本に帰って来たら、浦島太郎でね。毎日散歩をしているおじいさんと親しくなって、その人から大きなショーのディスプレイをするというチャンスをいただいた。それで、僕の考える「和」の空間を大胆に表現したらグランプリを取ってしまった。その日から僕はディスプレイデザイナー、空間デザイナーになりました(笑い)。その後も、新潟県の小さな村の道の駅では、千人の食事ができるホールをつくったり、山の中なのに魚市場も設けた。新潟を代表する商品も全部そろえた。八軒の酪農家がつくっていた安田ヨーグルトを売ったりで、道の駅の売上げがその年の村の予算を大きく上回った。稲武の道の駅も、初年度から黒字でした。普通の人が考えるのと同じことをするんだったら、僕はする必要はないんです。


 18年前に作手にいらっしゃったのですね。なぜ作手だったのでしょうか。


 山で百姓をしようと、全国を探し回っていたある日、Iターンの青年と出会った。「作手はいいところだよ」って案内してくれた。そろそろ探し疲れた頃だったし(笑い)。息子の嫁さんはマウンテンバイクの五輪候補だった。作手でバイクの振興をしようと、スクールや大会も始めた。今では息子たちがここでやっているサローネ・デル・モンテは、マウンテンバイクの聖地のようになっています。


 「みどり」新年号でインタビューした岡崎の書家の丹羽勁子さんも桜ラインに協力されていらっしゃいますね。

 ここへ来たお蔭で、丹羽さんとも縁がつながり、桜ラインの立看板を書いていただいています。看板は桜とともに被災地に立つ。私たちはいつか来る震災の直前を生きているかもしれないものたち。だったら、現地に行って自分のために何か支援をするのが当たり前ではないか。現地に来て、現実を知ってほしい。例えば、報じられている津波の高さは10メートル。ところが、津波は坂は上がるし、二つが合体すると、巨大化する。引かないうちに、二波が来る、三波が来る。すると、40メートルの高台にまで来てしまう。実際、海から四キロも離れた大川小学校(石巻市釜谷山根)でも多くの犠牲者を出している。南海トラフが動いたらそういう例は山のように起きると思います。

 桜ラインの現在の活動状況はいかがでしょう。

 四月までに五十本を植えました。千年も命が長らえるような実のなるエゾヤマザクラです。五月から十月は巡礼行になります。

 これからのライフプランは、どのようにお考えですか。

 これまでも、これからも、僕の人生が変わるということはあり得ない。僕らはこの村で暮しながら、核というものは、人間はコントロールできていないよ。再稼動なんてとんでもないよね。と言って発信をする。僕らのやっていることは、日本人の暮しをどうしようか、ということに全部連動している。

 すべての思いが、活動が、そこに繋がっているのですね。

 僕が広島で原爆の洗礼を受けて以来、70年近く、その歴史を追って今のような時代になったわけです。だから、こんなことをしちゃあ大変だよ、こうしようよ、と言うのが僕のライフプランなわけです。美しい三陸の海岸に、総延長360キロのコンクリートの擁壁を立てようとしていること。そんなものが立ったら、誰も観光に行かないですよね。東北の海は死ぬし、海が死ねば、山も川もみんな死んでいく。そうなってからでは遅いよって。美しい日本の国土をどうやって守って次の世代に渡すか、というのは僕らの責任よね、みんなの。それが五歳からの私のすべてです。

 大変貴重なお話を、ありがとうございました。


インタビュアー
大嶋 宏美さん
大嶋 宏美さん

1979年生まれ。岐阜県出身。出版社勤務を経て、西尾市一色町で書店を営む夫と結婚。町の本屋の嫁として日々奮闘中。趣味は散歩と読書。