廣瀬誠さんは、2004年のアテネから2016年のリオデジャネイロまで4回のパラリンピックに出場し、2度も銀メダルを獲得したアスリート。現在、愛知県立名古屋盲学校の教師を務めながら、障がい者理解の普及でも活躍。
ご出身は三河だとお聞きしましたが、どちらですか?
西尾市です。幼稚園から高校まですべて西尾市内という、生粋の西尾っ子です。
柔道を始めたのはいつからですか?
高校に入ってからです。中学時代の部活はバレーボール。友達と一緒に何となくやっていた感じでした。高校では個人競技がいいと思いましたが、特に運動能力が高いとは言えないので迷っていた時、バレー部の先輩が柔道で黒帯を取ったのを見て「おっ、これなら僕でもイケるかも?」と思ったのがきっかけです(笑)。やってみたらハマりました。
視力に問題が出た時期は?
廣瀬 高2の終わりに視神経の炎症と言われて入院しました。後に、今の医学では治らないレーベル病という病気であることが分かりましたが、入院中は治ると思っていました。
どんな症状ですか? 柔道を続けることができたんですか?
視野の真ん中がごっそり見えなくなります。周囲はぼんやり見える程度。教科書が読めないとか自転車通学ができないとか、高校生活には支障が出ましたが、運動制限はなかったので柔道は続けました。結果的に柔道が心の支えになりました。
それは相当なショックだったでしょうね。
その時点ではまだピンと来ていなかったですね。将来が不安になったのは盲学校に進学してから。自立への道を学ぶつもりで入学したのに、逆に職業の選択肢が鍼灸マッサージ師しかないのかと思ってしまい、その仕事が好きじゃなかったらどうしようかと悩みました。障がいを持ったことを、高校時代よりもリアルに実感したんです。それでも国家資格を取るために体の仕組みを学ぶのは面白くて、すごく勉強しました。
盲学校でも柔道を続けることができたんですか?
はい。仲間も顧問の先生もいて、近くの高校に出稽古に行ったり、実業団に練習に行かせてもらったりしました。視覚障害者柔道の存在も知り、全日本視覚障害者柔道大会に出てみようという意欲も生まれて、初めて出場した時に学生の部で優勝したんです。
えっ、それはすごいですね!
ところが私は素直に喜べませんでした。高校時代の私は大会では1回戦か2回戦で負ける程度の力しかなかったのに、ここでは勝ててしまうことに違和感を覚え、その気持ちを後年まで引きずりました。初めて世界大会に出た時も、2位になったのに不満を表に出し、東京の道場の先生に「1位でもないのにそういうことを言うのはおかしい」とズバリ言われ、ハッとしました。トップに立ってもいないのに思い上がった考えを持っていたことに加え、そもそも圧倒的に人口の少ない視覚障害者柔道のレベルを一般的な健常者の柔道と比較すること自体に意味がないことにも、ようやく気付いたんです。
そうですか…。ところで東京の道場に通われていたんですか?
先ほど職業の選択肢の話をしましたが、もう一つ盲学校の教師という道も浮上して、盲学校を卒業後、東京の学校へ進学したんです。実はその後、鍼灸マッサージの仕事の良さも分からないまま盲学校で教えるのはおかしいと思うようになり、治療院で4年間働きました。実際に働いてみてその仕事も好きになり、そのまま現場で働き続けようかと迷ったほどですが、そういう私自身の気持ちや経験を伝えることで生徒たちの未来を切り開くサポートができるのではないかと思い、愛知県で採用試験を受けて教師になりました。もちろん東京にいる間も柔道は続けていて、複数の道場にも通っていました。
パラリンピック選手への道のりは長かったですか?
まず全日本大会に勝つ、世界大会への出場権を得る、国としてのパラリンピック出場権を得る、さらに国内で戦って最終選考で勝ち残る、それが当時の条件でした。私の場合、2004年のアテネが最初の出場です。それから北京、ロンドンと続き、2016年のリオデジャネイロを最後に引退しました。アテネとリオで銀メダルを獲得しています。
素晴らしい成績ですね!心に残っている試合はありますか?
負けた試合のほうが印象が強いですね。アテネで優勝できなかったのが悔しくて、北京では金を目指したけれど7位に終わり、ロンドンでは階級を上げて臨んだのに、それまで負けたことのなかった相手に準決勝でわずか15秒で、しかもやられたことのない技で倒され、メダルに手が届きませんでした。この時の負けは大きかった。相手に私のことを研究されていたからです。それまでは自分自身の技術を高めることを最優先していましたが、このときは相手に応じた情報戦略も重要であることを痛感しました。
負けから学ぶことって多いですよね。
そうですね。でもリオは勝った試合のほうが印象的。準決勝でそれまであまり情報のなかったモンゴルの選手と当たったんですが、向こうはこちらを研究していて、得意技(巴投げ)を封じられて苦戦した結果、今まで試合で使ったことのない、つまり相手が研究していなかった技で一本勝ちしました。まさに情報戦です。決勝ではウズベキスタンの選手に負けたけど、そちらは力を尽くして負けるべくして負けたので、金メダルが獲れなかったことは悔しいけれど、試合そのものに悔いはありません。
ご家族はその試合を会場でご覧になったのですか?
家族全員で見てくれました。娘が3人いますが、試合のことが何となく理解できたのは、当時6歳だった長女ぐらいですけどね。「金メダルじゃないけどおめでとう」と言ってくれました(笑)。その後もしばらくの間はテレビなどで日の丸を見るたびに「お父さんの運動会」と言ってました。
可愛い! 結婚されたのはいつですか?
2007年です。3人の子育ては大変で、私が試合で始終家を空けるので、妻は大変だったと思います。やっぱり家族って素晴らしいですね。リオを最後に引退を決めたのは、自分の年齢や体力のことだけでなく、子どももどんどん大きくなるし、家族と共に過ごす時間を大切にしたいと思ったからでもあります。
では現在はご家族と一緒の時間が増えたんですね?
ところが、スポーツを窓口にした障がい者理解を広める活動が忙しくて…。仕事のかたわらJPCアスリート委員会、日本パラリンピアンズ協会、全日本柔道連盟や全日本視覚障害者柔道連盟などでのボランティア活動に奔走していて、妻には「引退したのに忙しいよね」と言われています(笑)。
東京オリンピック・パラリンピックが延期になりましたが、このような不測の事態が起きた場合、アスリートはどうやってモチベーションを維持するんでしょうか?
具体的には選手によって違うでしょうが、基本的にはどんな場合でも同じ。ベストコンディションで臨むのは大事ですが、不可避なケガやトラブルは常に起こり得ます。常に問題が生じるのを想定して万全の努力をし、準備を重ねるしかありません。非常時にへこたれない強さを身に付けられるよう、日頃から心・技・体を鍛錬することが大切だと思います。これはアスリートだけでなく、全ての人に言えることではないでしょうか。
素敵なお話をありがとうございました。
※この記事は2020年07月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。