松本誠さんは横浜バンドホテルやプリンスホテル、小田急ハイランドホテルを経て1979年に渡仏し、ロアンヌ三ツ星レストラン「トロワグロ」、「ヴィヴァロワ」、「マキシム・ド・パリ」で修業を重ね、1982年に小田急山のホテル料理長となり、サンリオピューロランドの総料理長、オーストラリア大使館官邸の料理長、彦根ビューホテルの料理長などの経験も積まれている。友人の紹介で白百合学園にて生徒中心の教育事業で社会貢献出来ればとクッキングコースの講師を引き受けた。1986年には国立フランシュコンテ調理師会より「文化功労賞」を受賞、全日本司厨士協会アカデミー制定「最高技術者賞」など、数々の賞を受賞されている。

まず、松本先生とお呼びすればいいでしょうか?

まっちゃんでいいですよ。カラオケ同好会でそう呼ばれています。

いきなりまっちゃんは…では松本さんとお呼びします。ご出身はどちらですか?

昭和23年(1948)に北九州市の小倉で生まれました。3歳ぐらいまで福岡に居たと両親は言うのですが全く覚えていません。今年で71歳、白百合学園は今年の8月で7年になります。

そうなんですね。そのあとはどちらに行かれたのでしょうか?

父の都合で碧海郡上郷の上野と呼ばれている場所、今の豊田市です。そこで育ちました。

華麗なる経歴ですよね。松本さんの料理人としての始まりを教えて下さい。調理師の世界へ入って何年目になりますか?

15歳で調理師の修行に入ったので、今年で56年目になります。横浜にいる知り合いが横浜バンドホテルのオーナーをよく知っており、「横浜で修業すればどうか?」という話がありお世話になったのが始まりでした。

もともとお料理が好きでこの道に?

今のようにあの頃は豊かではなかった。高校に進学するのは3割ぐらいで、あとの7割は集団就職するような時代です。この業界に入れば食べ物の心配をしなくていいと。手に職をつけたいということもありこの世界へ飛び込みました。

フランス料理に専念するキッカケとなった出来事を教えてください。

最も強烈に心に残り、フランス料理の道に専念するきっかけになったのは小田急グループ。センチュリーハイアットホテルを建てるため、当時総料理長を務めていた土井一郎氏に呼ばれこちらに移らないかと言われたのがキッカケでした。その時、土井氏の後任のシェフとして呼ばれたのはフランス本場で10年程修行し帰国された高橋孝幸氏です。帰国されていきなり注文の通し方から会話まですべてフランス語。当時の私のポジションは副料理長ですが、その頃の私はフランス語を少し理解していた程度です。そのため、朝の7時から夜の10時までおおよそ15時間も働きながら必死でフランス語を勉強しました。これがフランス料理を長く極めようと思った私の軸になっています。

なるほど、すべてフランス語とは厳しい。それはショックが大きいですよね。その後の話が気になります。松本さんはどのようにフランス料理の世界を突き進むのでしょう?

その後は開業ホテルの要員として2年6ヶ月働いた後フランスで実習を受けました。帰国後は小田急山のホテルの料理長として7年3ヶ月もの間フランス料理に専念し、年俸1,200万円につられてサンリオピューロランドの総料理長として9年3ヶ月勤めています。しかし、その後バブルが弾けて責任を取らされたことで解雇になりました。


それは大変でしたね。解雇となってしまった後のお話を聞かせてください。


その後は運よく帝国ホテル総料理長の村上信夫先生の紹介により東京都港区のオーストラリア大使館官邸アシュトン大使の料理長として一年契約社員として勤務。その後、大使が交代となったため退職後に、ホテルレクワールド岡崎に呼ばれて総支配人として2年勤務しています。この時マネジメントについても学べたことは私にとっていい経験となりました。その後、富山のホテルに4年。その後岡崎市美術館の総料理長を一年ほど。彦根ビューホテルにて総料理長として2年6ヶ月勤務した後、豊田のホテルへ。そして友人の金子氏の紹介で、生徒中心の教育事業で社会貢献ができればいいと思い白百合学園にて講師を務めることになりました。私の料理人生の集大成として若い世代に継承してもらえることが大変うれしいですね。


岡崎市市制80周年晩餐会にて調理を進めている。


平成8年(1996)岡崎ホテルにて。岡崎市市制80周年晩餐会が料理の鉄人を呼んで行われた。


そのような流れで今白百合学園のクッキング講師をなさっているのですね。素敵です。どのようなことを生徒に教えているのですか?


食を通じて白百合学園からすばらしいレディーが多く誕生することを夢見て、フランスのホテル学校の教材を通して食生活とマナーも一緒に教えています。例えばテーブルマナーで見られるお国柄としてはヨーロッパのレストランで心がけるマナーについて。食事中にズルズルと音を立てるのは言うまでもなく人に不快感を与える音。他人への配慮が必要です。このように、文化の違いを理解しお食事を楽しむことなどを伝えています。男女間のマナーも日本とは異なります。女性が男性にお酒を注ぐことはフランスで絶対にありえないことです。これは騎士道のマナーとも言えますね。日本の女性が男性にお酒を注ぐのを見るとフランスの人は目を丸くするそうですよ。



お国によって考え方は様々。日本では当たり前のことでも、他の国では受け入れられないこともあるんですね。

環境と食べ物によって腸の長さも変わってくるそうですよ。日本人と西洋人では腸の長さが違うんです。本来はフランス料理の伝道師としてフランス料理を流布する使命がありますが、どんなにフランス料理が上達しても腸の長さが変わるものではありません。でも、国が替わっても変わらず人の命を繫いでゆくものが「食」だと思っています。これは各国共通。人には喜怒哀楽がありますが、どんな時にでも人は食べなければ生きていけません。

松本さんご自身、食べることについて気を付けていることなどありますか?

僕はノロウイルスに感染しないよう、二枚貝は食べません。あと、赤ワインを飲むようにしています。赤ワインは健康の章(しるし)。26種類のポリフェノールが含まれており、胃の中で消化するときに癌細胞を作るのを中和させる物質が含まれているそうですよ。だから、できれば赤ワインと一緒にお食事をするほうがいい。毎日健康でいることが大切ですから。


二枚貝を食べないのは、やはり料理人ならではの考えですね。あと、赤ワインについては知りませんでした。やはり食のエキスパート。話題が豊富なので、聞いていてとても楽しいです。生徒さんも授業を聞いていて面白いでしょうね。


「一芸は、万法に通ず」という言葉が私のモットーとなっています。一つの芸や道を極めていけば、他の事にも通ずるものであるということですね。料理は素材、人は心、人生は勇気です。


なるほど、良いお言葉ですね。人生は勇気というのもどんな困難な状況でも突き進んで来られた松本さんにピッタリなお言葉です。


どんなに過酷な職場でも、常にチャレンジャーとして自身の足りない人格と心を磨き多くの人から学んで来たのは私の強みです。出会いは大切。「お料理も人生も自分で作ることが大切だよ」と生徒には教えています。昨日しなかったことを今日はやってみる。例えば、いつも料理はお母さんが作ってくれているのであれば「今日は私が作るよ」と言ってみてください。その日は昨日よりも幸せに感じられるはずです。お母さんはとても嬉しいし、自分自身も「おいしい」って食べてもらえたら幸せな気持ちになれる。一歩踏み出す勇気が持てたら、そこから何かが始まります。

とても心に響きました。私は音楽をやっていて、本当は沢山のお客様の前で反応を頂きながら演奏したりしているのですが、新型コロナウイルスの影響もありそういう場がない状態。しかし、ない中でも自分から音楽を楽しんで頂けるものを作るということが大切なんですね。どんなに過酷な状況でも常にチャレンジしてみようと思います。

料理と音楽でコラボレーションなんていうのも実現できそうですね。

料理と音楽はとても相性が良いのでやってみたいです。

やりましょう。カラオケは好きですが楽器を奏でることはできないので。そのような才能があるって素晴らしいことだと思います。

是非。松本さんにお会いできてよかったです。これからもパワー溢れる松本さんの想いやご経験を生徒に伝え続けてください。応援しています!


インタビュアー
榊原裕美さん
榊原裕美さん

安城市出身。名古屋音楽大学大学院修了。
合資会社中善楽器に勤務し音楽教室運営業務に携わる他、音楽講師として指導にも携わる。ライフワークとして電子オルガンと他楽器との共演、公演企画に注力。音楽を通じて人と人を繋ぐこと、スポットライトを浴びること、舞台袖で動きまわること、様々な形で音楽に携われていることに幸せを感じている。