平田聖子さん作曲の親鸞和讃による曲集「本願力にあいぬれば」は、西洋の宗教曲作品に対峙する、日本の宗教曲作品の誕生といわれる。「アーメン」にかわる「南無阿弥陀仏」が、豊かな感動をもって歌われる。2009年5月30日、親鸞聖人750回御遠忌・大遠忌特別記念盤としてリリースされたこのアルバムは、親鸞和讃曲集CDとしては日本初となる。作曲者、平田聖子さんはこの地、岡崎の人。早速、岡崎市美合町の自宅へおじゃました。

子供の頃は、どんな少女だったのですか。

両親は音楽教室を開いていました。私は小さなときからピアノを弾き、エレクトーンを小学校四年生から始め、バレエも習っていました。小学校六年生のときにはもう作曲家になりたいと卒業文集に書いているんです。毎週エレクトーンの先生の宿題でメロディを一曲作って書いていって、先生の前で伴奏付けして弾くというレッスンを受けていました。本格的に作曲を勉強したのは、高校一年生のときから。先生について和声学から始めました。

ご両親のしつけは?

母は私が生まれたら音楽家にしたいと思っていました。「絶対音」を付けようと「ラ・ラ・ラ」と私の耳元で歌っていた。父はトランペットを吹いてバンド仲間とダンスホールで演奏したり、歌の伴奏をしたり。私も小学校六年生くらいから仲間に加わって、エレクトーンを弾いていました。

平田さんが影響を受けられた音楽家は誰でしょうか。

少女の頃から、ラヴェルが大好きでした。絵でいうと富岡鉄斎ですね。20歳代の頃、展覧会を見に行き、技術と感性があふれて、年をとるほど人の心を打つ作品になっていくことに感動しました。いつか私もそんな自由自在な境地になりたいと強く思いました。

平田さんが仏教音楽をライフワークにしたいという思いになったきっかけは?

家が浄土真宗で、そういう環境にあったんです。いつか宗教音楽で大きなものを作りたいという思いはありました。1995年の秋に母から親鸞聖人の和讃から「弥陀の本願信ずべし」という四行の詩で作曲してくれと言われました。私はその頃、現代アートを模索していたので、特に興味はなかったのですが、親孝行してみようか、という思いで作曲しました。

誰もが歌えるような曲にと…。

ある日、洗濯物を干していたら、メロディが自然に湧いてきました。それを譜面にして、あっという間に伴奏も付けて、すぐにできちゃったんです。翌年に三河別院で新曲発表をしていただきました。お年寄りから子供まですぐに覚えて歌ってくれました。それから六年間、毎年一曲ずつ新曲発表をする中で、親鸞聖人のみ教えに触れるようになり、自分が今生まれている意味、そして死、家族への感謝など、仏様の教えに深く感動して作るようになりました。

ご主人様が得度されたと伺いました。

主人は大学の先輩で、作曲家です。西尾市制50周年記念のマリンバ協奏曲を書いたりしています。五年前に91歳で亡くなった私の祖母はとても熱心な念仏者でした。主人は祖母の介護も手伝ってくれた。祖母の信心に日々接して、み教えに深く触れたいという気持ちがどんどん大きくなっていき、得度しました。主人は私の曲をすごく褒めてくれます。主人の存在が非常に大きいですね。

周りの環境がすばらしいですね。

武蔵野音楽大学ピアノ科を卒業した叔母からも指導を受けました。私を教育する人が順番に現れる。もっと言ってみれば、祖先みんなの人生が私の中に入っている。和讃CDの誕生も、そういったことの賜だと思うのです。


ドイツ・ヒルデンのセントヤコブ教会での宗教曲交流でも和讃が好評でした。そのときの様子、お気持ちを伺いたいのですが。

ハワイとロスアンゼルスでも親鸞聖人の和讃、蓮如上人のお文という楽曲をみんなが歌いました。共通のベースがあるのを感じました。ドイツでは教会でも全然違和感なしに羽ばたいていったという感じでした。私は以前には現代アートとか、誰もやらないこと、自分にないものを一生懸命しようとしていたんですね。ところが「弥陀の本願信ずべし」は洗濯物を干しているときに出てきたのです。これは、宗教的には、私を救うために阿弥陀様がくださったメロディです。けれど同時にそれは、それまでに私の頭の引き出しに蓄積された中から自然に出たものといえる。また、その頃アマチュアのためのマリンバの曲を書いたのですが、これも4日でできています。

とてもいい曲ですよね。

同じ1996年にできたのですね。二曲ともいい曲だと言われ、作曲家の仲間たちも「一度聞いたら忘れられない」と喜んでくれた。目からウロコですね。私は今までなにを模索してきたのだろうと、すごいショックでした。それから「私は私のままであればよかったんだ」「私の中にあるものを素直に出すだけ」ということが分かって、それから本当の作曲家になったんです。


純粋に、自分であるがままに…。


作曲って面白いです。心が全部曲に出ちゃうんです。この曲を人がどう思うかとか、よそごとがちょっとでもどこかにあると絶対にいい曲はできない。どう思われたって、私は私であるだけで、音の中に没頭する。競争なんてもってのほか。人よりいい曲を書こうなんて、なんの得にもならない。人の心を打つというものは、そこから出ないとダメなんですね。それは分かりました、ほんとに。

作曲のひらめきはどんなときに。洗濯以外にありますか。(笑)

曲のことを寝ても覚めても考えるところまでいく。そうすると、朝起きたとたんにばーと出てくる。夜はちゃんと寝て翌朝ひらめく。親鸞聖人も「弥陀の本願信ずべし」の詩は、85歳のとき、朝早くパッと出てきたといいます。夢のお告げだったそうです。

仏教音楽で一番伝えたいことはなんでしょう。

仏様の愛ですね。仏様は人間を救いたいと願っています。仏様は私達のことを愛して哀れみ、救うためにいらっしゃる。大きな大きな愛。これは仏教語では、大慈悲心と言います。そういった慈悲の心を伝えたいですね、音楽を通して。

先生が吉良のお寺で講演をされましたね。聞いていてすごく感動しました。私は「南無阿弥陀仏」とは縁がないと思っていました。絶対他力は自力を超えるものかもしれないという気持ちにあの時なったんです。私「南無阿弥陀仏」の歌は、その話を聞いて歌ってみたいと思ったんです。ところで、これから作曲やコンサートでやっていきたいこと、夢を教えてください。

夢は、私のやってきた集大成として、オペラができるといいなと思っています。次の仕事としては、来年の八月のチェロコンサートのための作曲。また、来年五月には京都の本山の御影堂で、ソロと150人の合唱で、私の新作を発表します。親鸞聖人のみ教えをダイジェストにまとめた40分くらいの作品です。

最後に、岡崎はじめ郷土への思い、メッセージをお願いします。

日本の伝統、文化、宗教など、日本のいいものを、もう一度取り戻していく。それの手助けが少しでもできればと思います。郷土という点では、「よさこい」という踊りがありますよね。私が作曲してCDになっていますが、郷土とも音楽でつながって、地域に広がっていけば本当にうれしいことですよね。

ありがとうございました。


インタビュアー
杉浦 宏美さん
杉浦 宏美さん

安城市に生まれる。名古屋音楽大学作曲学科卒業。社会福祉法人「ぬくもりの家」のテーマソング作詞・作曲。知多ピアノ室内楽フェスティバル、日本のピアノ音楽100年展、等に出品出演。'05より絵本の語りのための付随音楽を作曲し西尾市内の寺院、小学校、福祉施設などで上演。足踏みオルガンのコンサートも企画、上演。さらなる音の表現を模索中。安城音楽協会理事。西尾市在住。