(左)五代目 三浦 宏之氏、(右)六代目 三浦 和也氏


竹内 和太鼓の歴史、三浦太鼓店の歴史について教えていただけますか。
五代目 弥生時代に出土している埴輪の中に、太鼓を持った埴輪があります。今の和太鼓とは少し形は異なるかも知れませんが、すでにその時代には太鼓の原型のようなものが存在していたのではないかと思います。
 三浦太鼓店は、慶応元年(1865)創業と伝えられておりまして、私たちも初代の名前「彌市」を引き継いで使っていますが、初代三浦彌市は豊田市の出身です。おそらく、豊田で仕事を覚え、東海道の宿場町であった賑やかな岡崎に出てきて太鼓屋をはじめたのだろうと思います。
六代目 そういった歴史が太鼓の内側に書いてあるんです。いつ、どこで、誰が作ったのか。自分達の歴史はそこから知ることができます。
竹内 当時、太鼓はどのような使われ方をしていたのでしょうか。
五代目 古くから神社やお寺での祭りごとの時に使われてきました。江戸時代中期頃になると太鼓や笛でお囃子をやる祭りが各地で盛んに行われるようになってきたといわれています。庶民が楽しみとして祭りに参加するようになり太鼓が広く使われるようになっていきました。このような流れの中で、江戸時代後期に初代がこの地で太鼓屋をはじめたということです。



竹内 和太鼓のどのようなところに魅力を感じておられますか。
五代目 例えば、洋楽器でも和楽器でもそうですが、その楽器を楽しめる年代というのはある程度限られてくる気がするんです。ところが太鼓というのは小さな子供でも叩けば音が出ます。自分なりに叩いて楽しめる。70、80歳になる方達も同じように楽しむことができる。年代に関係なく同じ目的のなかでひとつの曲を演奏できるんです。そういう所が一番の魅力だと思っています。
六代目 祭りの時でも太鼓の音は欠かせません。太鼓を中心にして皆がひとつになれる。太鼓だからできる活動を僕らは今やっています。もし太鼓がなかったら、これだけ多くの人が集まっていなかったかも知れません。老若男女問わずひとつになれる。そういうものって太鼓以外に何かあるのかなと思ったら、そう簡単にはないと思います。
竹内 太鼓を作る時のこだわりについて教えていただけますか。
五代目 小さな子供でもお年寄りでも叩けば音が出ます。ただ、一口に音といっても色々な音があります。低い音、高い音、ドーンと響くような音もあればパンパーンという音もある。お客様一人ひとりで欲しい音が違うんです。昔は、注文を受けると今までの経験の中で作って納品、それで済んだ時代もありましたが、近年は楽しみで太鼓をやられる人達を中心に楽器として使われるようになってきています。
 また、お祭りでも競争意識があって「よその町に負けたくない」という気持ちが強い地域の皆さんもおられます。少しでも良い音がする太鼓。では、良い音とは何だというと、その地域の人達が欲しい音、これが難しいんです。でも、うちの太鼓を使っていただく以上は、お客様に喜んでいただきたいというこだわりがあります。日々考えながら太鼓を作っています。
 昔は、各地域に太鼓屋さんがあって、その地域の太鼓を作ったり修理していました。ところが今はそういう時代ではなくて、自分達が要求する音をつくってくれる太鼓屋さんはないだろうかと、使う人達が探しているんです。その結果、全国から問い合わせをいただけるようになりました。
六代目 お客様が求めている音作りはもちろん大事です。でもそれ以前に、僕が感じている音、大事にしなければいけない音というものがあります。言葉で表現しないと皆さんに伝わらないのであえて言いますと「生きた音」を作るというのが僕等のテーマになっています。三浦太鼓店では「伝統を守り、伝統をつくる、我々は生きた和太鼓の音を届けます」これを理念として掲げています。毎朝皆で唱和するくらい大事にしています。そのために必要な技術だったり道具だったり、守らなければいけないものは何か、どうすれば生きた音が出るのかを考えながら日々太鼓作りに取り組んでいます。例えば、この太鼓は500年程前に作られたものです。500年経っても残されるものを作りたい、残される理由は人の心に届いているからだということを仕事を通して感じています。そこを追求したいんです。



竹内 太鼓を通じて、どのような活動をされてきたのでしょうか。活動の原動力は何でしょうか。
六代目 小さな頃、僕にとって親父(五代目)は太鼓屋ではなくサラリーマンでした。平日は働きに出て、土日になると太鼓屋の仕事をしていました。僕らはそういう姿を見てきたので、親父が太鼓職人という感じではなかったんです。大人になったら太鼓屋になるというなかで育ってきた訳ではないので、叩くことも小さい頃からやっていなかったし、太鼓に興味もありませんでした。
 20年程前です。今まで親父たちの時代にはなかった新しい太鼓を使う文化が生まれはじめた頃、僕は太鼓の仕事をはじめました。太鼓を叩くのは地域のお祭りだけでなく、舞台で演奏したり部活で使われるなど太鼓が世の中に広がっていく時代でした。これまでは代々守ってきたものを教えていただいて形にすればそれでよかった。でもこれからは、新しい太鼓の使い方をしている今の時代の人達が、どのようなものを求めているのかを理解しなければいけない。僕たちもその世界に足を突っ込んでみないと理解できないと思いました。自分は太鼓を作りはじめたけれど、叩くこともできないしその音がどのように伝わるのかもわからない、使い方もわからない、バチの握り方すらもわからなかった。自分が作るものが何もわからないのでは恥ずかしいという思いで僕は演奏活動をはじめました。
五代目 私の生まれ育った頃も太鼓の需要が本当に少なくて、父も母も私たち2人の子供を育てるのに太鼓屋だけでは生活できないので他の仕事もやりながら必死に働いていました。高校を卒業し、会社務めをしながら土日に四代目の仕事を手伝ってきました。結婚して子供ができて、娘が小学校3年生の時です。夏祭りで太鼓を見て「私も太鼓をやってみたい」と娘が言い出したんです。その時にお付き合いがあった地元のチームさんに入れていただいた時、私も太鼓をはじめました。プロで太鼓の演奏をやっていた方が指導に来られていて、そういう人達と知り合うようになりました。自分が叩いて、プロの人たちの話も聞ける訳です。そうすると、演奏に使う太鼓は、昔から作ってきた太鼓ではダメだということをそこではじめて気が付きました。
 演奏に使う太鼓はやはり演奏に向く音をつくらなければいけない。そうすると太鼓の作り方も変えなければいけない。ありがたいことに勉強させていただける機会が増えてきました。これから先、太鼓屋として生き残っていくためには、そういうことを自分で勉強して知るということがすごく大切なんだということを学んだんです。演奏に使う太鼓とはどういうものなのか、お祭りの太鼓とはどこが違うのかということを肌でわかるようになっていきました。
六代目 自分達が舞台に立つようになって「こんな太鼓があったらいいな」と思う、それを形にする。そうすると世の中で同じような活動をしている人達が「その太鼓いいね」と共鳴してくれます。
五代目 和太鼓屋さんはだんだん少なくなってきていまして、おそらく今残っているのは全国で200軒くらいだと思います。他の伝統産業と同じですね。そういう中で、演者が求めているものに気付いていれば逆に提案ができます。お客様に喜んでいただける音作り、同業者たちがやっていないことをやる。そういうところで生き残っていきたいという思いです。
六代目 時代の流れ、今何が求められているのかということを必死に考えることは、裏を返せば自分達がこの先生き残っていくためには何をしなければいけないのかという危機感を持つということだと思います。それが自分にとっては創作活動の原動力になっています。
 今は、太鼓を作りたいとか売りたいというのは通り越して、人と人とが繋がっていく文化をつくりたい。その中心に太鼓がある、ということ目指しています。地域で人が集まれることが少なくなってきています。芸能人を呼んで集客すれば人は集まりますが、次の世代に何かが残されて郷土愛が育まれたりとか、そういうものにはならない。3年程前からやっていることですが、八丁味噌の桶を太鼓の胴にするというように地元の文化を使いながら太鼓神輿を皆で作っています。それを祭りで皆で担ぐというのはこの地域でしかできないことですし、もしかしたら次代の子供達に繋がっていくものにならないかなと思いながらこのような活動を続けています。

株式会社 三浦太鼓店

愛知県岡崎市六供町杉本32-2
0564-21-2271 https://taikoya.net


インタビュアー
竹内 裕子さん
竹内 裕子さん

西尾市一色町生まれ。西尾市の生涯学習講座や、お寺ヨガなどのヨガサークルを毎週開催。ヨガを身近に、健康、喜び、充実感を得てもらえるようにお伝えしている。