岡崎市美術博物館の堀江登志実さんが2023年3月でご退任になります。みどりでは30年の間になんと14回もご執筆いただきました。矢作川の舟運(上)(下)・田中吉政・松平親氏・二代泰親・三代信光・四代親忠・五代長忠・六代信忠・七代清康・八代広忠・六所神社・大樹寺蔵の木造東照権現(徳川家康)像・伊賀八幡宮とどれも読み応えがある素晴らしい内容です。堀江様に感謝の気持ちを込めて今回のインタビューをさせていただきました。


本日はよろしくお願いします。早速ですが、堀江さんが学芸員として採用された当時のお話をお聞きしたいです。その頃は西三河に学芸員は何名ほどいて、どんな状況であったか、堀江さんが抜擢された理由などについても教えてください。


昭和56年(1981)に家康館ができるということで、学芸員で採用したいというお話が岡崎市からありました。採用されたのは私を入れて2人。もう一人は荒井さんです。岡崎市の学芸員としては草分け的存在ですね。当時は学芸員という職業がまだ市民権を得ていない時代。博物館や美術館を専門とする仕事があるということがあまり知られていなかったので、専門で学芸員を採用する自治体は少なかったと思います。今年で学芸員としては42年になります。昭和57年(1982)に家康館がオープンして17年間、岡崎市美術博物館の仕事には25年間携わってきました。


岡崎市で初の学芸員は堀江さんだったのですね。42年間も学芸員をなさっていたということで、話は尽きないと思います。まずは、家康館がオープンしてからの17年間について教えてください。


家康館の学芸員として採用されてからは、常設展示室の設計、オープン後は家康に関する特別展を行いました。昭和58年(1983)に大河ドラマ滝田栄主演の徳川家康が放送され、家康館には多く人が来館されました。ずばり家康公を取り上げたドラマは初めてで、岡崎は生誕地ということもあり観光客が押し寄せました。その時は「ドラマに合わせて家康館を作ったの?」と言われていましたが、これは違います。たまたまドラマがドンピシャリで重なりました。


この42年間で最も印象に残っている調査研究はやはり家康のことでしょうか?


家康関係もですが、岡崎市美術博物館で行った〝矢作川展〟のことが一番印象に残っています。古い時代から運搬手段として物資の輸送などで使われてきた川。そうした物流が人と人との関係を作ります。矢作川を通じて上流域には足助、下流域の西尾、そして間に入る岡崎。例えば西尾の矢作川河口の新田開発としての埋め立てにはお金がかかります。そんなときに資本投資をしたのは、足助や岡崎の商人たちでした。近世の岡崎は情報伝達の起点であり、発信力の高さなどバイタリティに溢れていました。藩と城、幹線道路であった東海道の宿場町があったということも岡崎の発展の要素です。いろいろなことを調べる中で、私は岡崎地域史に興味を持つようになりました。


今もバイタリティに溢れているように見えますが、昔の岡崎の人はそれ以上だったということですね。


愛知県史の調査で三河地域の色々なところに調査に行ったのですが、その時に調べた資料の中に〝岡崎〟という言葉が出てくると、岡崎と西三河各地が結ばれている情景が見えて嬉しかったです。近世の岡崎の情報発信力の高さは凄いんです。このことを企画展示の中で表現したいと常に考えていました。これが私の岡崎市美術博物館で学芸員活動として携わる原点です。


近世の岡崎のエネルギーを感じ取って、現代に伝えたいという想いがそれだけ堀江さんの中で強かったということですよね。


そうですね。展示を通して調査内容を説明する時、自らの足で感じたものはやはり言葉にした時に勢いが違い気持ちが溢れ出てくる。
 かつて三河の秋葉信仰について調べていた時のことです。岡崎をはじめとした三河には、秋葉信仰が特に盛んな地域で、街の中に秋葉の常夜燈があります。これらの常夜燈は道の三叉路や子供たちのよく集まる場所など、人がよく通る場所に建っていることに気づきました。神社の門前にある常夜燈とは少し違って、一基だけ建って秋葉の火伏の神様を祀っている。出身地の岐阜にはない岡崎の秋葉山常夜燈の存在に興味を持ちました。


この常夜燈があるというような秋葉信仰というのは岡崎の他の地域にもあるということでしょうか?


岡崎だけではなく三河地域や遠州や信濃にもあります。しかし尾張や美濃にはない風習です。2年ぐらいかけて各地を秋葉信仰について調べるために、地図を見ながら三河の各地をまわりました。地図を見ていると、一つの集落のどこに行けば常夜燈があるかということがわかってきました。この辺に行けばあるかな、ほらやっぱりねという感じですね。結果、火伏の神様は、誰でも目に付くような場所にいることがわかってきました。日常で手を合わせることで自分たちの村を守ってくれる。巡っていると村の鎮守としてそこに常夜燈があった江戸時代の情景が浮かんできます。これを展示で具現化できたことは学芸員冥利に尽きますね。


この地域にいると当たり前のことが、他の地域ではめずらしいこと。それは中に住んでいると気づかないことですよね。岐阜出身の堀江さんだったからこそ、三河の風習に目を向けられたのだと思います。このような研究の中で堀江さんは書籍の出版もなさっていますが、今回は〝岡崎藩〟〝近世の矢作川 日本一長い橋〟〝三河の街道をゆく〟の3冊についてそれぞれの本のご苦労話、関わった方々とのエピソードなどを教えていただけますか?


これは私の調査してきたことの集大成を詰め込んだ3冊です。岡崎市美術博物館での再任用の期間、2018年から2023年までの5年間で執筆したものになります。活動の中で得た知見をどこかで知ってもらいたいという想いがあったので、書籍を出せたことは幸せでした。最初に出したのは〝近世の矢作川 日本一長い橋〟。これは矢作川の展示を岡崎市美術博物館で行った時にとりあげた矢作橋の研究についての書籍です。岡崎には家康だけではなく最先端の技術を用いて作られた日本一の橋があったことを書きたかった。あと、〝岡崎藩〟について同じく岡崎市美術博物館で学芸員として近世史を研究している湯谷さんと執筆しました。よそから来ている二人だからこそ見える発見がありました。〝三河の街道をゆく〟は三河の13の街道を11人の学芸員たちが実際に歩いて書いています。現在跡形もなく消えている道などもあり、そういうところは苦戦しました。



堀江さんの執筆された本

堀江さんの執筆された本


ありがとうございます。実際に歩かないと見えてこないような当時の三河の景色が、読んでいる人にも伝わって、3冊ともとても読み応えがありました。それでは最後になりますが、堀江さんの今後の活動やこれを読んでいる方にメッセージをお願いいたします。


岡崎市美術博物館は退任しても、岡崎や三河地域にはお世話になったので、これからも研究を続けていきたいと思っています。岡崎は文化財の宝庫ではありますが、文化財保存という分野で弱い。古いものを活かして継承していくことが、できていないと思います。例えば建築物はそのままにしておくと、朽ち果てていきます。屋根の葺き替えとか、人が必ず介在しないと残らないんです。刀剣も同じです。人が手入れをしてきたからこそ美しさが保たれてきたのです。今後の活動では、こうした文化財保存との関わりについてもアピールできたらと思います。


次の世代に継承されていく文化財であってほしいですね。堀江さんの今後のご活躍にも期待しております。本日は貴重なお話をありがとうございました。


インタビュアー
石原 智葉さん
石原 智葉さん

昭和48年西尾市で生まれ育ち、OL時代を経て26歳で結婚。一級建築士試験(合格率10%難関試験)を44歳で取得。一般の方向けに自然素材を使った家づくりについて勉強会などを自社で開催しながら、設計業務をしている。普通の主婦から一級建築士になったからこそ培われた視点で自然に寄与する家づくりを提案している。