昭和2年、アメリカから12,000体以上の青い目の人形が、日米交友の使者として日本各地に贈られた。それから10数年、日本とアメリカは戦争に突入し、親善の使者はスパイ人形として扱われ、その多くが処分されていった。しかし戦禍を逃れた人形が幸田小学校に現存する。人形の発見が話題を呼び、人形を通して新たな日米交流が行われている。幸田親善人形友の会会長の成田重忠氏にお話を伺った。

「青い目の人形」のはじまりは、いつ、誰が、誰へ、どのような目的で、贈ったのでしょうか。

 青い目の人形は、昭和2年に日本にやってきました。それ以前、アメリカの宣教師であるシドニー・ギューリックさんという方が日本にいたんです。その頃アメリカは「移民法」でアジア系の人達の受け入れ制限をしたんです。一種の差別法ですね。日本とアメリカの関係が悪くなってきたということです。それに対して、日本にいた親日家のギューリックさんは、このような法律ができたことにとても憤っていました。アメリカ人としてもあまり誇れるものではないし、改善しなければいけないということで、相当政治的な運動もされたようですが結局うまくいかなかった。それでも諦めないで次の手段を考えたのが青い目の人形です。親善人形、人形大使、そういう形で次世代に希望をつなごうとしたんです。国際理解も含めて、仲良く良い交流をしていかなければ、ということを次世代に伝えていこうということでこの人形を日本へ贈ることを思いついたんです。
 彼は、日本でひな人形の文化があるということをよく知っていました。お雛さまの時期に一緒に飾ってもらえるような人形、そういうイメージで12700体くらいですかね、すごい量をアメリカのほぼ全土から日本へ贈ったんです。それを受け入れたのが渋沢栄一氏です。財界人ではあるけれど、アメリカとこれからは仲良くしていかなければいけないということを考えておられた方です。日本に届いた人形を、全国の、主に小学校を中心に、うまく送れるように手配したんです。ですから人形は、北海道から九州まで贈られました。
 それに対して、日本からは答礼人形を贈っているんです。だいたいは県を代表して、たとえば愛知県ですと「ミス愛知」とかね、そういう形でかなり立派な人形を。無事にアメリカへ着いて、非常にお互いの国で歓迎されました。それ自体は、とても効果があったと言っていいでしょう。
 ところが、アメリカとの戦争が始まって、敵国の人形は処分すべきだという風潮が高まり、処理されたり燃やされたりしたんです。いわば処刑のようなものです。悲しいことです。

 現在、私たちが住む西三河にはどこに何体残っているのでしょうか?

 今までに発見された人形は愛知県内で10体と言われていますが、実際に小学校などに保管されているのは9体。残り1体は個人蔵という形になっています。西三河では、幸田小学校に1体、吉良中学校に1体、岡崎市立宮崎小学校に1体現存しています。
 人形には、いわゆるパスポートといって名前と何処から送られたか、その時の思いも書いてあるメッセージを託されて一緒に贈られているのが普通なんです。ところが、幸田小学校にある人形は、何もない。人形だけが40年以上ひっそりと隠されていたんです。ですから名前も当初は分かっていなかった。ところが人形が出てきた時に「この人形は親善人形で、歓迎式をやって、名前がグレースエッサと言っていたよ」という当時を知る方がまだ生きておられていて、名前が特定されました。一端消えた人形が発見されるまで40年くらいたっているので、現存するほとんどの人形にはパスポートがなく、カビたり色が剥げたりしているけれど、この人形は保存状態がよかったんですね。


ケイティー(左)グレース・エッサ(右) 幸田町立幸田小学校蔵


 青い目の人形に出会ったのはいつ頃でしょうか。その時の感想、印象はいかがでしたか。

 私が人形に初めて出会ったのは2012年3月、幸田小学校に保管されているグレースです。
 グレースに出会う前のことです。アメリカの友人からこのような依頼がありました。バージニア州ロアノーク市の美術館で、日本に届けられた親善人形を里帰りさせて答礼人形と合わせて展示して、子どもたちに見せたいということでした。歴史教育の材料に丁度いいんですね。幸田小学校に親善人形が保管されているということをアメリカの人達は知っていました。
 私が窓口になったということで、その時初めて幸田小学校へ行って人形と対面しました。その時の印象は、苦しい時代を生き抜いてきたんだな、と感じました。戦争が始まったら、今まで大歓迎していたものがどんどん処分される。そういう社会的な風潮のなかで、それを隠して保存して伝えていくべきだということを考えた人がいたということです。人の本当に普遍的な気持ちを伝えているなという、そういう意味でとても感動しました。だから、この人形をここに飾っておくだけでは、もともとの趣旨が生かされないということを強く感じました。
 結局アメリカへは、私と家内で機内まで抱えて里帰りさせました。皆の思いがこもっている人形ということで神経を使いました。3カ月間展示された後、人形は美術館の方が、郵送ではなく、幸田まで持って来てくださいました。

 その後どのように関わってきたのでしょうか?

「青い目の人形と若草物語」展という企画展を個人企画で開催しました。また、昨年(平成27年)新・青い目の人形が幸田小学校にやってきたことです。この人形が来たのが3月3日、ひな祭りの日に、シドニー・ギューリックさんの孫のデニー・ギューリックさんがお爺さんの意志を継いで贈ってくれたんです。
 その後、「文化振興展・青い目の人形とその時代」を幸田町主催で開催しました。振興展の修了時期に合わせて講演もさせていただきました。「貴重な人形だといって飾っておくだけでは物足りない。幸田町で民間活動組織をつくって国際理解や国際交流、さまざまな教育活動や文化活動のひとつのシンボルにしていったらどうか」と提言しました。それに賛同していただいた方で「幸田親善人形友の会」を発足しました。


 これから先、どのようにお考えでしょうか。

 やりたいことはいろいろあります。会員による各種活動発表、学習会、他の親善人形の会との交流、著名な研究家による講演など。また、人形展を日本で開催したり、アメリカでもできます。人形を題材にした英語教材、歴史教材など、教育活動にも充分使えます。たとえば、私がアメリカとやり取りした英文も教材になりますよね。生の英語が学べます。人形に関わる英語の本も随分出ています。
 今、幸田親善人形友の会の会員数は54(団体も含む)ですが、これからもっと若い世代にも働きかけ、活動に参加してほしいと思っています。いろんな関わり方で継続していかないと消えてしまいます。だから、やることはいっぱいあるんです。これを読んで関心を持って頂いた方は、地域・年齢は問いませんのでぜひ入会して頂き、共に考え、活動の場を共有できればこんな嬉しいことはありません。


インタビュアー
ハープ奏者 川島 憂子さん
ハープ奏者 川島 憂子さん

2才から音楽の基礎、4才からピアノを始める。スコットランドでハープに出逢い、ハープに転向。第9回大阪国際音楽コンクール入選。