今年の夏で語りべを志してから25周年を迎える田中ふみえさん。故郷西尾を中心に海外も含めて全国各地で活動を展開している。近年は、語りべリサイタルだけではなく、語りべを育てることにも注力している。当地区語りべの第一人者である田中さんは、どのような思いで語りべを志したのか、語りの世界を通して何を伝えていきたいのか。
 インタビュー取材は、西尾市歴史公園 旧近衛邸茶室にて初夏の風がここちいい庭園を望みながら行われた。

語りべになろうと思ったきっかけは何だったのですか。

私はアナウンサーになりたくて、大学へ通いながら1年間、アナウンス養成所に通いました。そこである劇団の方に声を掛けていただいて、子供達に邦楽器をもっと広めたいという先生方がいるので、それについて歌のお姉さんみたいなことをやってくれないかと。大学4年生の時でした。お琴と尺八の先生と私、3人でグループを組んで幼稚園・保育園・小学校を回って楽器の紹介をしたり、邦楽をバックに歌ったり、素で語るという経験をさせていただいたんです。それは日本の昔話や民話でした。子供はつまらないと立ち上がって外へ遊びに行っちゃう。でも本当にいいものになると微動だにせずに物語の中にすっぽり入ってくれる。私は当時、音楽と言葉で子供と対決していたわけです。それが私に力を与えてくれた。表現者としての基盤がそこでできたという気がします。日本の和の世界と、子供にもわかるくらい伝わるものというのが私の語りの世界。これが原点です。

真剣勝負ですね。

そうですよ(笑)。大人は静かに聞いてくれるけど子供は正直、そうはいかない。だからお話しにすっと入ってくれた時は嬉しかった。子供って優しいから一生懸命やるとわかってくれるんです。

これまでにどのような活動をされてきたのですか。

今年の夏で語りべ人生25年になります。22歳から語りの世界に入り、結婚・出産も経験しましたが語りは続けてきました。縁あって宮崎県の日向市というところに住んだんです。神話の里です。そこでカルチャーショックを受けました。物語は生きている、誰かが適当に作ったお話ではない。そこに生きていた血の通った人たちの真実があるんだということを知りました。神話というものに触れたわけです。この時、私の語りが変わったなと思いました。
その後主人が病気で急に亡くなり、そのなかで私は、語りをこれからの人生で人様の役に立てるものにしていこうと志しました。3年後、西尾市文化会館の小ホールを無謀にも一人で借りてリサイタルをやったんです。半分しか埋まらなかったけれど。ほぼ一人でやりきって、これで生きていくという、いわば志を立てたわけです。それまでは既存の作品を語っていたのですが、この頃から自分で脚本を書くようになりました。
歴史ものや出来事、西三河ですと「三河地震の物語」徳川家康公の「厭離穢土欣求浄土」、吉良上野介や富子夫人の物語、安城市ゆかりの新美南吉の物語も語らせて頂きました。毎年、野田城、長篠城、鳳来寺山でも歴史語りをさせていただいています。去年は東北を回りまして被災地で語りをさせていただきました。語り終わった後にお婆ちゃんたちがやってきてくれて、取り囲んで地元の話をいっぱいしてくれました。思いが伝わると絆が生まれる。先人たちが残してくれた宝物、とても大事なものなんだなと思いました。癒されたり元気づけられたり、語りを続ければ続けるほどそう思います。

内容だけでなくて、ふみえさんの声がすごく人の心に入ってくるんです。本当にそう感じます。

声って不思議なんですよ。不思議体験をいっぱいするんです。本番になると自分の身体に誰かが入っているような。本当に生きた人のことや出来事を語る時には、目に見えない先祖たちが集まってきて、私の口を借りて語っているのかしらと思うことが多々あります。脚本を書く時も、当時の人たちはどういう環境で、どのような気持ちで生きていたのか。今と全然環境が違うじゃないですか。例えば戦国時代の女性の話。その時代の女性の立場や生き方、その中で彼女は精一杯生きた。そこを一所懸命感じようとすると魂が伝わってくるような気がするんです。



語りの世界を通して皆さまに伝えたり感じていただきたいことをお聞かせください。

本を読むといろんな歴史が書いてあるんですが、そこにあるのは出来事。でも私の伝えたいことは、生身の人間がそこでどんな思いで生きて何を残そうとしたかということを伝えていきたいと思っています。
例えば今、切腹する人はいませんけれど江戸時代には腹切る人がいたわけです。今とは全然違う価値観。そこには道徳観や生きる志というのがあったからこそそういう思いになる訳で、それは今の私たちが当たり前に感じられるものではないんです。けれども、その人たちの生き様っていうのかな、それは伝えなければいけないと思っています。

その時代のその人になりきるということですか。

そうです。いろんな時代の人になってきました。縄文時代にも行きました。私が学んだ寺津小中学校は縄文遺跡の上に建っていまして、去年と一昨年は縄文の話をやったんですよ、縄文人になって(笑)。
一つ作品を書き上げるということは並大抵のことではなくて、ゼロから生み出すということはものすごいことだと思うんです。そういうことを経て作品が生まれます。その時その人の気持ちを全身全霊で感じる。それが積み重なってくると人生経験が増えたような気がします。これもまた豊かな人生を生きる醍醐味かも知れませんね。辛いことも苦しみもみんな作品の中に入って、人に感動を与える材料になる。語りは人生を幸せにします。そう思っています。

語りべをやっていてよかった!と思えたことをお聞かせください。

私は不器用な人間ですので、いろんな思いを表現できないでいました。語りというものに出会って、自分の思いを作品に込めて表現する、それでお客様から拍手がいただける。そんな嬉しいことはないです。それによって私も元気になって皆さんも元気になる。そういう世界を自分で生み出せたということ、そしてそこに賛同して私もやりたいという人が出てきてくれた。嬉しいですね。

これから、どのような思いで、どのような活動をしていきたいとお考えですか。

若い頃は私、自分が自分がという人でした。大きい舞台でやってみたいとか思っていました、正直。でもね、最近はそんなことも思わなくなってしまった。語りべを育てたいですね。たくさん種を蒔きたいというのが今の思いです。100年後に花が咲くように。その時私はいないけれど、今伝えなければいけないことがあると思います。
世のなかがどんどん変わっていくなかで子供達を見ていると、古いものと私が思っているものは意外に子供達にとっては新鮮で、それを知りたがっている。そういった自分たちのルーツを今、若い人たちが求めているような気がするんです。その人たちに向けて、自分の生まれた土地や国に誇りを持って、志を持って伝えていく、そういうことをしていきたいです。


インタビュアー
ハープ奏者 川島 憂子さん
ハープ奏者 川島 憂子さん

2才から音楽の基礎、4才からピアノを始める。スコットランドでハープに出逢い、ハープに転向。第9回大阪国際音楽コンクール入選。