明治40年(1907)頃、初代である斉藤種吉は野菜や果物などを、生産地から消費地への中継ぎをする「送り仕」をしていた。初代はもともと吉良の出で、身分差のある人と恋におち、かけおちをしてここ知立で商売をスタートさせた。はじめは商店としては商売ができなかったが、いわゆるブローカー的な(どこかから運んできたものを売る)ことからコツコツとはじめた。種吉と2代目の昇の頃はリヤカーで物を売っていた。
昇が大正元年(1912)ぐらいから八百種商店として野菜や果物を売る商売を始める。昇と兄弟たちは力を合わせて運送部や青果部などそれぞれの得意分野で商売を広げていく。昇は真面目で、一族はみんな商売上手であった。自動車運送部門では野菜だけではなく地域のさまざまなものを運搬した。大正9年にT型フォード箱型を入手して貨物自動車業の認可を受け、自動車業も兼ねての営業をスタートさせる。
昭和7年(1987)、青果部「八百種商店」、自動車部「八百種運送」を各部独立させた。昭和8年(1988)にトヨタ自動車が車を作り始めるときには、トヨタのエンジンを積んで運んでいた。すぐに壊れてしまう繊細な部品だったため、トヨタのスタッフが横に乗って部品を運んだ。JRの前身である国鉄ができた時、滑車の荷物なども運送していた。昭和の初期には大きな冷蔵庫を買って、時期をずらして品物を売るということも行っていたそうだ。現在の知立大興はご親戚筋の方が経営している。
3代目は昇の娘である道子が継ぐ。お嬢様育ちで昭和20年代にワンピースを着ているような女性であった。婿養子に入った清二が3代目となり道子と清二は一緒に八百種商店を経営していた。清二には商才があり、新しい事業を展開していく。当時競走馬を6頭ほど所有していたそうだ。このころ清二は複合型食品店を開く。戸板商売からスーパーマーケット化へと駒を進めたのだ。豆腐や卵、肉や魚など八百種商店は行けばなんでも揃う場所である。
現在の5代目が子どもだったころまでは複合型食品店を続けていた。当時は大盛況で朝から晩までレジを打ちっぱなし、休む暇はなかったという。3代目が亡くなり4代目を引き継いだ頃は、大型ショッピングセンターが次々とオープンし、八百種商店はどんどんと苦しくなっていった。価格競争が起こる欧米化が進み時代は変わっていく。そのあとはコンビニが流行りだした。4代目は複合食品店を閉める決断をすることになる。40件以上知立にあった八百屋はどんどんと閉店していく。しかし八百種商店は店を閉めたおかげで配達ができるようになり、それが評判になった。ヤオハンができて中に入っている飲食店が八百種商店の野菜を仕入れてくれるようになる。これにより安定した数字がとれるようになる。いつしか、八百種商店は〝飲食店に食品を納めている八百屋さん〟というポジションを確立させていく。
現在は元樹が5代目を継ぎ、たくさんの配達先を抱える。「安かろう」ではなく、本当に良いものを選んで届けることを第一に営業してきた。一軒一軒を大切にし、人が途切れないように努力している。現在は八百種商店以外に有限会社トマトという会社も経営している。ここでは産地直送の野菜を売ったり、学校で育てた野菜を地域の小中学校の給食で使うプロジェクトを実施したりと食と農業に関わる取り組みをしている。地元野菜を給食に使う取り組みは先生から「お願いします」と言われるほどの人気ぶりである。生徒自身が食に関わると今までは高かった残渣率は、驚くほど下がるそうだ。その他にも元樹は、学校の家庭科の授業で頼まれれば魚のさばき方まで指導している。その他にもしいたけの生産をする株式会社斉藤商店や冷凍食品を作成する中部フードなど幅広く親族が一致団結して商売や活動の幅を広げ続けている。
「今諦めそうになっている人へ、変化やチャンスは必ずあるから〝やってみたい〟と思ったことは諦めないで続けて」という元樹の熱いメッセージが誰かの心に響く。そして諦めかけた誰かの再起力となる。こうして人同士は助け合っているのだ。
※この記事は2023年07月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。