江戸時代後期文化12(1815)年、十一代将軍徳川家斉の頃に「白久商店」は創業した。今年で創業201年を迎える。初代の近藤久兵衛は当初、太もの繊維を扱っていた。その頃の足助は、三河湾で取れた三洲塩を信州へ運ぶ「塩の道」の中継地として、山越えをするための積みかえをしていたこともあり、とても栄えていた。創業当初の白久商店も繁盛していたという。二代目も近藤久兵衛を名乗って家業を継いだ。その後、商売の内容は時代とともに変化していき、近藤久兵衛を名乗った最後の十二代目店主の頃には下駄屋をやっていたという。そして戦後、十三代近藤純からは本名を名乗りはじめた。その頃は、お菓子などを入れる箱を作っていたという。
時代は流れ、大正8年に白久商店の屋号を、現社長の父である中根隣治が受け継いだ。隣治は教科書などの書籍や文具・ラジオやカメラなどの販売をはじめたが、なかなかうまくいかない時期が続いたため、長男(現社長)である陸雅は、千葉の全寮制高校を卒業後大学進学を決めていたが、家業を立て直すために進学をあきらめて家業を継いだ。「あの頃は多額の借金を抱えて大変だった、とにかく目の前にあることを頑張るしかなかった」と、陸雅社長は当時を振り返る。この頑張りが功を奏し、次第に経営も波に乗っていった。そして昭和も終わる頃、多額の借金を完済していた。
梁が太くて天井が高い木造二階建の店舗は200年程前に建てられたもので、伝統的建造物に指定されている。この建物は、白木屋の屋敷の一棟で、明かりとりをした天井と立派な井戸・足助川へ通ずる石段など、今の建築技術をしのぐ粋な様式となっている。店内には書籍のほか文房具などがぎっしりと陳列されていて、どこか懐かしい雰囲気を感じる。小中学校の教科書や事務用品の卸し、防災用品など「何でもある」という品揃えで、扱う商品は5万種以上。陸雅社長は「足助の総合商社みたいなものだよ、頼まれればノーとは言わず『探してみますわ』という調子でやってきた」と笑う。経営が悪化すると個人の財産が没収される合資会社にこだわるのも「それくらい責任を持ってやらなければいけない、今を一生懸命頑張っていれば必ず道は開ける」と前を向く。
※この記事は2018年04月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。