令和2年(2020)はサンエイ株式会社にとって創業100周年にあたる年。遡ること100年前、日本では第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催されていた。しかし、日本中に大歓声が沸き起こるような年ではなく株価が大暴落し、戦後恐慌が起こっている。
このような時代に神谷繁太郎が刈谷駅で三栄組として荷役運搬業を開始しサンエイの歴史は幕を開ける。これが大正9年5月のことだ。その後、大正11年(1922)にトヨタ紡織が刈谷へ進出することが決まり、その際に繁太郎は候補地探しから尽力した。建設時には土木建築の仕事を請け負うことに。ここから建設事業部が始まることになる。
昭和2年には依佐美送信所の建設がスタート。1基250m、重量285トンの鉄塔を8基建てる工事で、三栄組は鉄塔資材の運搬や鉄塔の組み立てを担当した。重機事業部の誕生である。当時の重量物運搬はコロ引きによる人力作業であった。
以降、お客さまの要望や時代の変化に応じて、自動車部品の梱包資材を提供する物流事業部、施設清掃やビル管理を担うサービス事業部、産業廃棄物処理の環境事業部、そして車両の点検整備を行う車両事業部と、お客さまの痒いところに手が届くように事業拡大を続けてきた。
平成11年(1999)には中部圏の民間企業で初となるロータリーキルン式焼却溶融炉を導入し、産業廃棄物の安全処理とリサイクルを両立させる。当時、ダイオキシンが社会問題となり、中小規模の焼却炉は次々と廃炉になった。サンエイはゴミの減量化とリサイクルを徹底したのだ。
平成14年(2002)にはアスモ(現デンソー)から自動車用ワイパーの組み付け業務を移管。サンエイ初のモノづくりを開始し、品質管理の重要性と考え方を学んだ。
平成17年には中部国際空港の施設清掃と廃棄物処理を受託。トイレのきれいさやゴミのリサイクルなどで、空港会社が目指す空港ランキングの1位獲得に貢献した。このようにサンエイは顧客満足度を常に重視したサービスを提供している。
「今を感謝し、今を未来に伝える」。
100周年を迎えた「今」があるのは、先人たちの努力・苦労はもちろん、お客さま、仕入先さま、地域社会、 地域住民など、あらゆる人たちのおかげであることに感謝する。そして、「今」の姿を未来へ伝えることで、歴史を継承していく。
サンエイとしての大きな転機となった出来事は平成4年(1992)の本社新社屋建設である。同時にCI(コーポレート・アイデンティティー)を導入し、社名を三栄組からサンエイに変更した年だ。合わせて会社ロゴマーク、制服、名刺、封筒など、あらゆるものを刷新。これまでの古くていかついイメージから現代的な明るいイメージに変身する。サンエイの旧社名三栄組には、社会、会社、従業員の三者がともに栄え、発展するという創業者の思いと信念が込められている。これは経営理念として、これまでも、そしてこれからも受け継がれていく。
現在の社長である神谷武之は6代目にあたる。
「100年続けてこられたのは、諸先輩方の努力と良きお客様に恵まれたことの2つに尽きる。これには感謝の言葉しかない。会社経営は信用が一番、仕事は信用についてくる。これまで築いてきた信用を守り続けるには、信用される人材を育てることが大事である。会社は人でもつ。これからの人にも経営理念にある三者繁栄の精神を受け継いでいってほしい」と語る目は、今と未来をしっかりと見据えていた。
※この記事は2020年10月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。