江戸の頃、松村家から一心堂の物語が始まる。当時、挙母藩(現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の譜代藩)で№2の寺社奉行であった松村家には娘がいた。娘は学校の先生をしており、尾張藩高力家から養子として吉太郎をもらう。吉太郎はたいそう〝てん刻(印章を作成すること)〟が得意であった。
明治6年(1873)7月に転機が訪れる。太政官布告「本人が自書して実印を押すべし」と実印を捺印する制度が定められたのだ。これにより印鑑の重要性は高まり、地域で印鑑屋さんは少なかったため、多くの人が印鑑を作ってほしいと吉太郎のもとへ訪れた。吉太郎は明治15年(1882)挙母村(豊田市喜多町)に「印判彫刻処 一心堂」を開業する。
明治26年(1893)のこと、吉太郎が急逝し東栄町の武家、佐々木家から台太郎がムコ養子に入る。台太郎も東京で、てん刻を学んでいたので2代目に選ばれた。「ものを作るためには、わき目なくお客さまのために作る心を大切にする」という初代の想いを受け継ぎ、 屋号を〝一心堂〟に改め商標登録した。俳句や和歌などが趣味で、地域で区長や役員としても活躍する。
大正5年(1916)、佐々木利十が伯父の台太郎へ弟子入りする。昭和5年頃、利十が一心堂の家督を引き継ぎ三代目となったが、日本は満州事変の真っただ中。それに伴い軍事訓練の気運も高まる中、足の悪い人などは参加ができず仕事が限られていた。利十は仕事が忙しくなったことや、いずれは徴兵されることを思い、愛知県各地から〝手先は使えるが戦争に行けない人〟を募集し印鑑を彫ることを教えた。その際一心堂の屋号を暖簾分けしたため、現在でも愛知県内には一心堂の屋号が多数存在する。
昭和35年(1960)に利十が隠居、息子の佐々木努が4代目として家督を継ぐ。努は東京星野印版で機材彫刻を学び、金型彫刻やネームプレート彫刻を始める。努はさらに昭和42年(1967)宮口工場を新設し、本格的に金型彫刻、ネームプレート、既製ゴム印、工業ゴム印、位牌彫刻の量産に入るなど、一心堂ブランドを確立。努はその他にもJCの理事長や豊田RCの会長、商店街の理事長などの役職を持ち、ゴルフや書道など趣味も多く、人との関わりを大切にした。そんな中、55歳の頃に胃がんが見つかる。その際、息子であった佐々木希に「これからはお前に任せる」と伝えた。
希は東京の工作機械メーカーのエンジニアとして6年半勉強し、一心堂に戻るとロボット化の流れにいち早く対応し、機械を導入するなど手腕を振るった。平成2年9月一心堂を法人化。努はこのような数々の功績が評価されたことで、平成5年(1993)に中部機械彫刻工業会理事長になった。平成13年にはレーザー彫刻機も導入されている。平成23年に努が逝去し、平成25年(2013)9月に希が代表取締役に就任する。
バブルの名残もあり印鑑はよく売れたが、一心堂は〝売り手〟〝買い手〟〝世間良し〟の三方よしの考え方なので、あまり利益は出なかった。しかし、権利や財産を守るのが唯一無二の印鑑であると信じて作り続ける。「小さな店だけど、仕事に誇りを持ち真心のサービスをモットーとする」という社是が守られているのだ。
6代目となる佐々木理にもその想いは受け継がれている。小さな頃から父や祖父が働いていたところを見ていたからだ。そのため、大学卒業後はすぐに株式会社一心堂入社した。2013年取締役就任。「創業して141年が経ちました。今までのお客さまを大切にし、さらに若いお客さまにも認知していただくために、SNSで一心堂の商品や情報を紹介することに力をいれています。人生の大切な節目に印鑑が必要になったら、そのお手伝いをぜひ一心堂にさせてほしい」と話す理の言葉には、一心堂を守り抜く覚悟がある。
※この記事は2023年04月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。