初代信太郎は岡崎市の石屋町でパン屋の修行をしていた。その後明治45年、当時の幡豆町役場の前に移転し、住宅兼店舗で穂積堂は誕生した。三軒長屋の真ん中で、隣は自転車屋、帽子屋だった。パンを中心に飴や饅頭などを作り、大八車で碧南から岡崎まで行商に行った。
戦後間もなく、二代目となる信一が戦地から引きあげてきてからは、初代信太朗夫婦と信一夫婦、二代の夫婦4人で、老舗和菓子店に教えてもらいながら和菓子作りをはじめた。当時の商品は、パン、タバコ、煎餅、飴などだった。
三代目昭夫が家業を継いだのは昭和41年。老舗和菓子店では進物ものや上生菓子が売れていたなかで、穂積堂では蒸しカステラ、炭酸饅頭、みたらし団子などのおやつ菓子(安価な駄菓子的なもの)を作っていた。「これではダメだ」昭夫は試行錯誤していた。その頃、地元菓子屋が集う「さんらいず」という会の仲間に出会い、毎月1回、新しい商品開発、情報交換、年に一度各地の繁盛店の視察などをやっていた。その後、進物菓子作りに注力するようになっていく。これまでの店舗では手狭になってきたため昭和57年、和菓子専門店を西尾市鶴舞町に新築オープンした。
その頃から組合主導のまちづくりイベントで、地元の特産品である「西尾の抹茶」を使ったスイーツコンテストのお手伝いをしながら、抹茶を使った商品の開発・販売に取り組んでいく。これがきっかけとなり、三代目の後半からは抹茶商品に特化していき、代表商品である「茶ぼーず」が開発された。この商品は今でも店頭に並んでいる。
平成9年、後の四代目となる雅也が家業を手伝うようになり、雅也のアイデアで抹茶プリンやチョコ餅など、次々にヒット商品が開発されていった。抹茶がこれまでの4倍というヒット商品「稲荷山」もこの頃開発された。そして平成25年、雅也が四代目となった。バブルが弾けて苦戦していた頃、テレビなどで抹茶を使用した和菓子が話題となり、テレビ取材も幾度かあった。平成24年、複合商業施設(シャオ)内に出店。いずれにしても厳しい状況が続いているが「地元の特産品である西尾の抹茶を使用する商品を開発することによって西尾の観光を盛り上げる手助けになれば」と四代目は笑顔で語ってくれた。
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