太田商事株式会社は太田商事グループの中核を担う会社で、創業は江戸時代初期にまで遡る。戦国時代、織田信長の三男・信孝が豊臣秀吉に追われて知多半島の野間で自刃した時、最後まで付き添った太田一族の中に、太田和泉守牧陰という人物がいた。それから約70年後の承応4年(1655)、孫の徳右衛門が刈谷に移り住み、「和泉屋」という暖簾を掲げて酒造業を興した。これが太田家の商いの始まりである。
和泉屋は刈谷でも指折りの商家となったが、当時の酒造業は米価の変動や荷船の遭難などによるリスクの大きい不安定な商いだったため、6代目平兵衛正直の時代(1708年)に、地場産業の木綿や米を扱う堅実な商売に転じた。この商法によって信頼と実績を積み重ね、7代目平蔵正長の時代(1731年)に刈谷藩の御用達商となり、名字帯刀が許されるまでになった。創業80年弱で、名実ともに刈谷を代表する商人にまで成長したのだ。
そして明和4年(1767)、8代目平蔵正勝が主に菜種油などの灯油を扱う油問屋の道を切り拓く。これが、今日の太田商事の主要事業の一つにつながっていく。
この和泉屋の基盤をより強固なものにし、現在に至る経営方針の礎を築いたのが、11代目の平右衛門正行である。幕藩体制のひずみや天災による相次ぐ飢饉などから、刈谷藩は長らく経営の危機が続き、御用金の負担に耐えられない富商たちが続出する中で、和泉屋は変わらず安定した商いを続けていた。
この11代目が、質素倹約を尊び投機的な事業に手を出すことを戒めた店方「定」を制定したのが、天保3年(1832)のこと。自らの手で杉板に書き記したこの「定」は、現在も太田家に残されている。そもそも堅実商法が家訓ではあったが、明文化によって後々まで徹底化されるようになったのである。この11代目の時代に、やはり現在の主力事業の一つへとつながる「鉄」(鍋釜、古鉄)を扱う部門が生まれたとされている。
幕末から明治維新への激動の時代をくぐり抜けるや、急速な近代化の波が訪れた。明治30年(1897)、13代目平右衛門正淑は、太田家の不動産管理運用を主目的として泉合資会社を設立。ここが現在もグループの不動産部門を担っている。
個人経営だった和泉屋は、大正3年(1914)に合資会社太田商店として法人化。大正10年にはさらなる事業の発展を目指して太田商事株式会社を設立し、13代目平右衛門をその初代代表取締役として、新たなスタートを切った。来年が創立100年の節目となる。
戦争で取扱い商品を統制されたり、世界経済の影響を受けたりしながら、昭和、平成、令和へと時代は移ったが、「信用・堅実」の社訓を守り抜いてきた360余年の老舗は今も健在だ。かつての油事業は現在のエネルギー事業(石油)へ、そして鉄は建設資材事業へと受け継がれている。もう一つの主力事業であった紙部門も、グループ企業として存続している。何百年の時を経ようとも、地に足の着いた経営方針は不動の老舗である。
※この記事は2020年07月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。