江戸初期、初代将軍徳川家康公は、鉄砲の使用を制限するという目的で火薬製造を禁止したが、家康公の生誕地である三河地方だけ火薬製造、特に花火を許可したという。この「お国もの」の特権が三河花火の起源といわれている。
三河花火を継承する太田煙火製造所は昭和3年、初代太田松右衛門が岡崎市若松町に創業した。戦前は、花火で遊ぶということは希で、神事で使う花火が主流だった。戦後、二代目の昭和20年代に入ってからは流通もよくなり、娯楽としての玩具花火の出荷が増えていった。三代目の昭和30年頃からは「2Bクラッカー」が爆発的な人気となり、玩具花火を作る業者が多くなっていく。そして四代目の昭和40年代、日中国交正常化以降、安価な中国製花火が大量に輸入されるようになった。その影響により、岡崎界隈の花火職人は次々と姿を消していく。太田煙火製造所も苦しい時期はあったが昭和24年頃発売した太田オリジナルの噴出花火「ドラゴン」がヒットし続けたおかげで存続してきた。
五代目、現代表の恒司さんは、長野で花火作りの修行を3年程積んだ後、昭和60年から家業を手伝い始めた。中国からの輸入に加えて、安全やマナーの問題から「花火離れ」が起きている。伝統の三河花火を伝えていきたいという思いは強いのだが、この問題を解決していくことができなければ花火業界の未来は暗いという。
「もともと、花火の源流は、お祓いや無病息災、先祖供養などの神事なんです。なぜ花火という文化が日本に息づいたのか、これが忘れられてきている」と五代目は残念そうに語る。
※この記事は2016年01月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。