大正期 大正旅館の看板

大正期 大正旅館の看板

大正3年(1914)2月5日はここ碧南駅の記念すべき日、三河鉄道が開通した日である。大浜湊駅として開通され、刈谷駅まで結ばれたこの場所は港・道路や鉄道の起点となる重要な場所。醸造業の蔵や木綿工場、鋳造工場が林立し、産業が盛んで人の出入りが多かった。大浜湊駅開通に際して、「遠方よりお越しになる人が困らないように、また駅前が賑やかになるように」という想いで大正3年、大正館の初代となる杉浦ぬいの夫、仲次郎が大工として『大正旅館』を建設、開業する。大正5年(1916)には料理店を兼業するようになった。

同年、「駅前が賑やかになるように」という初代の想いを守り、受け継いだ二代目の杉浦武雄が満州大連にある湊屋という菓子店に修行に出る。そして大正11年(1922)に満州より戻った武雄が菓子店を兼業するようになった。

その後、西尾にある精養軒へ修行に出て、洋食の食堂も兼業することとなる。さらに時代の流れを読み大正15年(1926)には浜寺海水浴場に海の家を出店し、ビリヤード場や酒場など事業を拡大していった。昭和9年にはビリヤード場を閉鎖し、当時人気のスポーツとして老若男女問わず国民に人気があった卓球場を作る。昭和17年(1942)は第二次世界大戦の真っただ中。当時の日本は食糧事情がひっ迫した状態であった。そこで行政に指定された食堂として「外食券食堂」の指定を大正館が受けることになる。券を持参しなければ外食をすることはできず、食堂やレストランなどで食事をする機会が制限された厳しい時代である。

外食券制度は終戦後も暫くの間続いていた。戦争も終わり、ようやく平穏を取り戻したと思われたその時、昭和19年(1944)に災難が大正館を襲う。昭和東南海地震で建物が崩壊したのだ。その後、昭和20年(1945)に三河地震も起き、建物は全壊。バラック小屋で商売を再開させることとなる。


昭和中期の食堂

昭和中期の食堂


昭和44年 大正館食堂正面 鉄筋3階建築

昭和44年 大正館食堂正面 鉄筋3階建築


昭和23年に食堂を拡張、一部を二階建てにし、昭和24年(1949)には中二階のお座敷をつくり、料理店の許可をもらうことができた。昭和29年(1954)に旅行業の許可も得て、一階が大風呂、二階が座敷となる建物を増築し、部屋をどんどんと増やしていく。


昭和42年(1967)に2代目が亡くなり、3代目の昇一が暖簾を繋ぐ。昭和45年(1970)に法人組織に変更し株式会社大正館となる。平成21年(2009)に3代目が亡くなり、バトンは4代目の杉浦義己に託された。4代に渡って守られてきた暖簾は、平成26年(2014)に創業100周年を迎えた。

「駅前に 味を守りて 去年今年(こぞことし)」というのは現女将の4代目女将、杉浦保子の言葉。一日一日、一年一年を丁寧に歩んできたその道を、現在は4代目の杉浦義己とその息子の杉浦良祐が力を合わせて繋いでいる。


外観

外観

平成28年(2016)、老朽化していた建物を建て直し、新しく生まれ変わった。立派な梁と開放感がある吹き抜けの大広間、シャンデリアがある和洋折衷のテーブル席など、美しいデザインである。同じ年に改築された建物は、「へきなん都市デザイン文化賞」の大賞に選出された。


「この100年で戦争があったり、三河地震で店舗が全壊したり、伊勢湾台風で半分水につかったりと本当に色々なことがありました。伊勢湾台風の際に仕込んでいた料理を近隣にふるまったという話や接待でよく来店された話、結婚式を挙げた話など、多くのエピソードをお客さまからお聞きします。また戦後何もなかった時代に進駐軍から西洋料理を教わったこと、東京へ出張に行ったお客様から最新の料理事情を聞き、手さぐりで料理を作ってきたことなど先代から教えられました。このように地元大浜とさまざまな人に支えていただいたおかげで100年も営業を続けることができました。お客様の人生の1ページ、そのほんの片隅に大正館があるということが本当に嬉しい。大正から令和へと時代と共に変わってきた大正館ですが、碧南駅前の同じ場所、同じ想いで今後も皆さまをおもてなししていきたいと思います」と語る杉浦良祐の1ページにも生まれた頃から大正館がある。


大濱旬彩 大正館

所在地
碧南市中町3-18 Google Map
電話番号
0566-41-0125
定休日
毎週月曜日(第三月火曜日は連休)
ウェブサイト
https://taishokan1914.com/
昼 11:00~14:00
夜 17:00~22:00(L.O.21:00)