明治38年、初代三浦多市が西尾に「三浦石版所」を開設。当時の西尾市は、三河三都のひとつといわれており、城下町だったこともあり商人のまちとして賑わっていたという。
「やるならまだ人のやっていないことをやりたい」多市は東京で5年間印刷技術を学び、難しい石版印刷の技術を身につけて帰り、印刷所を立ち上げた。多市23歳、西尾で初めての石版印刷所だった。
昭和16年、太平洋戦争の最中だった頃、二代目三浦省三が31歳で事業を継ぎ、翌17年に「三浦印刷所」に改名。戦争が終わりに近づく頃、政府の指示で4~5社の印刷所が三浦印刷所に集まって合同で仕事をしていた時期もあった。印刷用紙も不足し配給されていた。昭和の金融恐慌で倒産する企業もあり、生き残るだけでも大変な時代だったという。厳しい時代を乗り越えて昭和23年、法人として「合資会社三浦印刷所」を設立することになる。昭和30年半ばからは日本の高度成長が終わり低成長の時代であったが、印刷分野は宣伝の時代で、商標印刷が減少し折込みチラシが拡大していた。その頃、4色両面印刷ができるB3のオフ輪を三河でいち早く導入している。
昭和60年、三代目三浦康彦が42歳で事業を継いだ。印刷を核にして事業内容を広げていこうということで社名を「株式会社エムアイシーグループ」に改名。Mはマルチメディア、Iはアイデア、Cはコミュニケーションという意味が込められている。チラシ・新聞・雑誌などの活字からラジオ・テレビ・通信など、すべての分野の宣伝広告に対応していこうというもの。その後も、印刷のデジタル化をはじめ相次ぐ技術革新に素早く対応するなど、三代目は次々に新たなチャレンジをしていく。名古屋営業所の開設、マックの導入、若いデザイナーの積極採用、ウェブ事業部を新設してホームページの制作や三河のポータルサイト「みかわこまち」の立ち上げ、展示ブースのデザインや見せ方など「にしお産業物産フェア」の運営も手掛けるようになっていく。
地域貢献では、まちおこしで踊ろっ茶西尾に参加して優勝したこともある。また、地域の環境美化活動、文化貢献では歴史や文化を掘り起こす季刊誌「みどり」を平成5年から発行、メガソーラー事業を地元の4社で立ち上げて地球にやさしい自然エネルギーを運用することも行っている。
そして昨年、平成29年に四代目三浦康太郎が引き継ぎ「お客様の魅力を発信していく」というテーマを掲げ、代がかわろうともさらなるチャレンジを続けている。
※この記事は2018年01月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。