創業から199年目を迎える総合建設業・不動産開発業の角文株式会社(刈谷市泉田町)。文政6年(1823)に4代鈴木文助が角屋文助(かどやぶんすけ)を名乗り「角屋」を創業した。鈴木家は5代まで文助が続き、その後三郎、孝平、文三郎と現在に繋がっている。その経緯は次のとおりである。
西三河の豪商であった神谷家の5代長四郎の弟が2代鈴木文助の養嗣子となり、3代鈴木文助となった。5代神谷長四郎氏が安永9年(1780)11月に刈谷藩から格式を命じられ(武士に取り立てられ)お城勤めとなったことから、神谷家で行っていた商売を鈴木家の養嗣子となった文吉に引き継いで、さらにそれを継いだ4代鈴木文助が文政6年(1823)角屋の創業に至った。その後、弘化3年(1846)に角屋の初代が亡くなり、5代鈴木文助が角文2代目文助として角屋を継いだ。「角屋」の「文助」だから「かどぶん」と名が通っていたそうだ。
学校建築・町屋建築での木造建築の実績を積み、のち木造から鉄筋コンクリートへの建替えの際、木材に「角文」の焼印が各地で見られるようになる。のちに3代目となる三郎には「常に未来をみて、今までの習慣にこだわらず進んで新しいことをする」と教え諭し、三郎に慶応義塾大学の福沢諭吉の下で勉学に励むよう指示。在学中に文助が亡くなったため、明治35年(1902)に三郎は17歳で角文材木店を継ぐこととなる。
三郎は「家を建てるというお客様の夢を叶えましょう」と唱え、良質な木材をできる限り安価に販売するなど「お客様第一」の精神を深く角文に根付かせる。昭和28年(1953)に角文4代目として鈴木孝平が角文材木店を継承。継承後の初仕事は武豊町富貴の「知里付神社」であった。昭和32年(1957)に製材工場が完成し、昭和33年(1958)には建設業者登録を取得し、建設業を開始。
平成2年(1990)に角文5代目となる現在の代表である鈴木文三郎が角文木材工業社長を継承。平成5年(1993)に現在の地に新本社ビルを移転させる。同年、社名を角文木材工業株式会社からすまいの角文株式会社に変更し、国内初の一般定期借地権付分譲マンションの販売を始める。平成21年(2009)7月1日すまいの角文株式会社と角文建設株式会社は合併し角文株式会社に社名変更。
角文は令和3年まで創業が文久3年と伝えられてきた。しかし、刈谷市歴史博物館の元学芸員である村瀬氏により、創業が40年遡ることが判る。
「少子高齢社会を見据えて住まいの隣にオフィスがあったりホテルがあったりスーパーや医療施設がある、いわゆる日常の生活はこの中でできるというコンパクトシティをつくりたい。地域の皆さまに来ていただける、愛していただける、喜んでいただける、そんな街づくりを目指しています」200年も続いている企業の50年後の街づくりを想像してみる。そこには、私たちの想像をはるかに超える驚きや喜びが待っているに違いない。
※この記事は2022年04月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。