崑崙人の古画像

 今から約1200年前、延暦18年(799)7月、西尾市天竹(今の天竹町あたり)に天竺国の崑崙人が漂流し、壺に入れた棉の種のまき方や栽培方法を教え、日本に初めて棉を広めた。その崑崙人の古画像がこの地の地蔵堂に伝わり、近隣の人々はこれを棉祖神と崇めて延命長寿の神として祀ってきた。
 大日本史によると「小舟で一人三河に漂流するものがあった。身なりは布で背を覆い、ふんどしをつけ袴はつけず、左肩に袈裟に似た紺色の布を着けていた。年は二十歳ばかりで身長は五尺五分、耳の長さが三寸余りあった。言葉が通じず、唐人はこれを見て『これは崑崙人(東南アジア)だ』といった。その後、中国語を習い、自らを天竺人(インド)といった。常に一弦琴を弾き歌は哀調を帯びていた」とある。
 明治16年村下登地籍より、この地に神明社を移転建造して産土神とした時、この棉祖神を国家の有功な神霊として祀るため、有志により近隣等の賛同を得て、これを新波陀神として天照大御神と併せて祀った。今も棉の種を入れた壺は宝壺と称して天竹神社本殿に残っている。


 天竹神社では毎年10月の第4日曜日に棉を尊ぶ祭事「棉祖祭」が開催されている。棉祖祭は、棉を伝えた新波陀神を祀る祭礼であり、海を渡って伝えられた棉にちなんで船神輿が展示され、古式の道具を用いて行う「棉打ち」の儀式が執り行われる。ピーン、ピーンと弦の音が響き、あたりに細かな綿が飛び散る。「唐弓」といわれる道具の弦の振動を利用して「棉くり」を弾きとばし、棉をほぐしていく。棉神様を祀る神社としては全国唯一のため、木綿関係者の崇敬も深く、祭りは多くの人で賑わう。
 日本で初めて棉花の栽培が西尾天竹で行われるようになり、天竺木綿、三河木綿として、この地方に綿業が早くより発達したことは多くの史実によって明らかである。


奥の建物が棉資料館

神社前の広場には、近隣の子供達が植え付けた綿畑がある。


所在地
西尾市天竹町 Google Map