船頭重吉(佐久島出身)漂流から今年で200年
1813年(文化10年)11月、船頭重吉の乗る廻船督乗丸は、江戸からの帰路、伊豆子浦沖で暴風雨に遭う。イギリス船フォレスター号に救助されるまで、実に484日に亘り太平洋を漂流した。世界最長の漂流という。この苦難に耐えた重吉の強い意志と肉体、仲間を弔う信仰心は、神仏を尊崇する佐久島の自然と人情の中で育ったからであろう。今年は船頭重吉の漂流から200年になる。
海の男船頭重吉の会発足
昨年4月には、佐久島出身の重吉の地元、西尾市一色町の水野克宣さんたちが呼びかけ、「海の男船頭重吉(キャプテン重吉)の会」を発足させた。今年秋には、西尾市・半田市・新城市の3市による「船頭重吉サミット」(仮称)を佐久島で開催する予定。紙芝居「船頭重吉物語」を画家・中根正治さん(同会副会長)の画で制作中。同会の読み聞かせグループにより保育園、幼稚園、小学校などで実演し、原画展も開く。
また、484日という世界最長漂流記録は、本郷照代さん(同会事務局長)が「船頭日記」の記述を英訳し、ギネス世界記録へ申請。すでに受理され、認定を待っている。
昨年5月に行われた「三河一色うなぎまつり」でも、船頭重吉コーナーを設けてアピール。重吉や千石船などの絵入りの「船頭重吉せんべい」を地元のヤマ伍三矢商店の三矢誠さん(同会副会長)が製作。うなぎまつりでも無料配布され、好評だった。
「ふるさとは子供や孫への贈り物。重吉のことをよく知ってもらうことで、まちづくりに貢献できればうれしい」と水野同会会長は話している。
亡くなった船員たちを供養
重吉は1785年(天明5年)佐久島の百姓善三郎の次男として生まれ、14歳で尾張半田村百姓庄兵衛の養子となった。29歳の時に廻船督乗丸の沖船頭として乗組員13名とともに師崎(現・南知多町)から江戸へ。その帰路に暴風雨に襲われ、太平洋を漂流。イギリス船に救助され、アラスカ、カムチャッカを経て5年後に帰国を果たしたが、この間に船員は次々と亡くなり、帰還したのは重吉を含め2人であった。
その後の重吉は尾張藩のお抱え水主となり、名字帯刀を許されるも、亡くなった船員たちの供養のために職を辞し、異国から持ち帰った品を公開するなどして浄財を集め、笠寺観音に供養塔を建立。半田村では物故者12人の二十七忌施餓魂を営んでいる。重吉が新城藩の池田寛親に語った漂流の顛末は『船長日記』として残されている。
信じがたい漂流と遍歴の話は、当時疑いの目で見られたであろう。重吉は妻子とも別れ、晩年は必ずしも幸せではなかったようだ。69歳で永眠。
※この記事は2013年01月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。