岡崎市明大寺町の六所神社は松平・徳川氏ゆかりの神社で、社殿は国指定の重要文化財となっている。その建造物は、岡崎市内では伊賀八幡宮、瀧山東照宮とともに徳川将軍家によって建立されたことで知られ、市域の歴史を反映する特色ある建造物となっている。近年、社殿の修復が行われ、本殿、幣殿、拝殿などの屋根を覆う桧皮の葺き直しと極彩色の塗装が施された。これらの修復は江戸時代の初めに建立されて以来、連綿と今日に至るまで続けられることにより、その文化財建造物としての命脈が保たれている。
 六所神社の江戸時代の景観は、貫河堂によって描かれた六所神社図(『岡崎市史』第七巻)からうかがうことができる。神社への参道は、現在、名鉄電車の線路で分断されたり、参道に沿うように設けられた弓の射的場は失われているものの、松並木の参道は社殿とともに往時の景観を良く伝えている。
 六所神社は、加茂郡の六所山に松平氏が奥州塩竃六所大明神を勧請したのが始まりといい、松平氏の勢力発展とともに岡崎の地に松平氏が氏神として移したとされている。徳川家康の産土神とされ、家康は慶長七年(1602)に朱印状で額田郡高宮村の内にて六二石余の知行地を与え、さらに同九年には社殿を造営している。現在、このときの棟札が残されている。また、三代将軍家光は、寛永十一年(1634)の上洛の折に岡崎城にて当社を遥拝し、名代松平伊豆守を社参させ100石の知行地を加増し、さらに同年から十三年にかけて社殿および神供所を建造させている。この家光による造営時に本殿・幣殿・拝殿を連結し、華麗な彩色を施した権現造りの現在の姿が出来上がった。 
 江戸初期に建立されて以後、幕府により修復が行われるが、江戸中期に幕府が財政難となると、幕府による直轄工事での修復は行われなくなる。その代りに金銭を下付したり、御免勧化を許可して修復を幕府が支援するようになる。六所神社が認められた御免勧化は、一般の私的勧化とは違い、幕府が許可した御免勧化と呼ばれるもので、寺社奉行連印の勧化状を順行のとき持参して廻るものである。幕府の名を後ろ盾に寄附を募るもので資金が集めやすかった。『御触書集成』などによると、六所神社は宝暦二年(1752)年二月~三年二月を第一回として幕末まで七回もの御免勧化が認められ、神社では三河のほか江戸、摂津・山城などの国を廻ったようである。現在の建造物は御免勧化を認められて各地を順行した神社のたゆまぬ努力のうえに残された歴史的遺産ともいえよう。



所在地
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堀江 登志実(岡崎市美術博物館学芸員)