由緒
西尾市吉良町宮崎に位置する幡頭神社は三河湾に突き出た岬の先端に築かれた神社で、「宮崎」という地名のもとになった由緒ある神社です。大宝2年(702)の創建と伝えられ、平安時代前期に編集された『延喜式』に記載のある式内社です。
平安時代末期には、三河国司の藤原顕長が幡頭神社を参拝し、幡豆郡司を務めていた伴助平に和歌を贈ったことが文献に記されています。
祭神は古代尾張氏の祖とされる建稲種命です。建稲種命は日本武尊の東征に同行し、尾張から東海道を通り、東国の蝦夷を平定したとされます。東征の帰り道は日本武尊が中山道を通って大和に戻ったのに対し、建稲種命は海路を取り、途中駿河沖にて暴風雨により船が転覆し水死してしまいます。幡頭神社の伝承によれば、駿河沖で遭難した建稲種命の遺骸が宮崎海岸に流れ着き現在の社殿地の裏に祀ったのが、神社の起こりと伝えられています。
建築の特徴
拝殿の背後には、三つの社が並んでいます。中央が本殿、向かって左手が熊野社、右手が神明社です。本殿は天正8年(1580)の建築で、桃山時代の建築様式を伝えています。大正10年に国の特別保護建造物に指定され、戦後重要文化財となりました。建物は流れ造りと呼ばれる形式で、極端に反り返った桧皮葺の屋根が美しい曲線を見せています。熊野社は寛永18年(1641)年、神明社も同時期の建立と考えられ、いずれも県指定文化財建造物です。建築様式の異なる桧皮葺の3棟の社殿が並ぶ姿は見ごたえがあります。
神社名の変遷
平安時代の文献には「播豆神社」または「羽豆神社」と記されていますが、中世には「羽利神社」と呼ばれる場合が多くなります。その後、現在の「幡頭神社」の表記に変化するのは、熱田神宮に伝わる文献を研究した江戸時代後期の国学者らの影響によります。建稲種命が日本武尊東征の「旗頭」を務めたことにちなみ「幡頭」が神社名に用いられるようになりました。
※この記事は2019年07月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。