多宝塔


 知立市西町にある知立神社は『延喜式神明帳』に記載された式内社で、三河国二宮として古くから信仰を集めてきた神社である。この知立神社の鳥居をくぐるとすぐ右に、三間二層、杮葺の一基の多宝塔が、西を向いてそびえ立っている。神社の記録から永正6年(1509)に再建されたものという。神社最古の建物である。


知立神社の図(明治34年)
多宝塔が瓦葺の知立文庫の姿で描かれている

 多宝塔は本来仏教に関わる建造物であり、神社の境内にあることには、現代の感覚では違和感を覚えられるかもしれない。実はこの多宝塔は、神仏習合の時代を今に伝える貴重な遺物である。大陸から伝来した仏教と、日本に元々あった神々への信仰を結び付ける神仏習合思想のもと、奈良時代から寺院に神が祀られ、神社に神宮寺が建てられるようになった。知立神社も例外でなく、社伝によれば、嘉祥3年(850)に天台宗の僧円仁(慈覚大師)によって神宮寺が創建され、この多宝塔が建立されたという。神宮寺は学頭玉泉坊をはじめ七坊を数えたが、戦国期の兵火によって神社の社殿と共に消失した。その後、玉泉坊のみが再建され、承応2年(1653)に寛永寺の末寺となり、総持寺と改名された。
 戦乱による焼失を免れた多宝塔は、しかし明治初年の神仏分離令によって、受難の時を迎える。新政府によって神仏習合は否定され、神社にある仏教的要素は排除されることとなり、仏塔である多宝塔は取り壊しの危機に直面した。しかし、当地を治めていた刈谷藩主土井利教はこれを惜しみ、多宝塔を温存するため策を講じた。上部の相輪を取り外し、屋根を入母屋造の瓦葺に改造、高欄を取り外すなどして仏塔色をなくした上、自ら書いた「知立文庫」とする扁額を掲げることで、破壊から守りきったのである。


知立文庫(知立神社蔵写真より)

東海道名所図会(知立神社)

 この時、多宝塔内部に安置されていた愛染明王坐像は、神宮寺であった総持寺に移されたが、神仏分離政策で住職が知立神社の神官となったため、廃寺となり、愛染明王は近くの了運寺へと再び移された。その後、地元民の尽力で昭和2年に総持寺は再建され、愛染明王も迎えられて、現在は境内の愛染堂に安住の地を得ている。


多宝塔前に並ぶ5町の山車

 さて「知立文庫」として廃仏毀釈の荒波を乗り越えた多宝塔は、明治40年(1907)に特別保護建造物に指定され、大正9年(1920)にようやく元の姿に復元された。その目前では、平成28年にユネスコ無形文化遺産となった「山・鉾・屋台行事」の一つ「知立の山車文楽とからくり」が隔年に奉納上演されているのである。


所在地
知立市西町 Google Map
一柳 尚子(知立市歴史民俗資料館 学芸員)