『国・重要文化財 聖観音菩薩立像』 瀧山寺 所蔵

 運慶とその子湛慶の作と伝わる仏像です。現在は瀧山寺の宝物殿に同作の梵天・帝釈天を両脇に配して安置されていますが、もとは源頼朝の菩提を弔うため瀧山寺内に建てられた、惣持禅院に祀られていました。

 丸みを帯びた顔に力強い表情や、充実して太造ながら強く引き締まった体部は、同時代の運慶作例に通ずる表現で、その他にも肉厚を厚く残した内刳りや、玉眼でなく彫眼を用いる点も他の運慶の作品と共通しています。右脚を少しだけ前に踏み出し、腰を左に捻ったプロポーションは美しく、たおやかさをも感じさせます。なお彩色は、近世の後補と考えられます。

 現在では岡崎のみならず、日本を代表する仏像彫刻として有名ですが、厚く塗られた彩色のせいもあり、実は近年まであまり注目されていませんでした。それが昭和50年代に入って大きく変化していきます。その変化に大きな役割を果たしたのが、瀧山寺の歴史・由緒を記した『瀧山寺縁起』(瀧山寺蔵)でした。『瀧山寺縁起』には、鎌倉右大将家=源頼朝の三回忌にあたる正治3年(1201)に合わせて、頼朝の等身大でこの像が造られ、像の中には頼朝の鬚と歯が納められたと記されています。この記述に着目してX線撮影が行われ、像の顔の部分に鬚と歯を入れたと考えられる小さな紙包み状のものが確認されました。これにより『瀧山寺縁起』の記述の正しさが確かめられ、昭和56年(1981)、国の重要文化財に指定されました。


提供:岡崎市教育委員会社会教育課 『聖観音菩薩立像』X線画像
X線撮影にて像の顔の部分に鬚と歯を入れたと考えられる小さな紙包み状のものが確認された。


 ではなぜ、運慶・湛慶作の仏像が瀧山寺に造られることになったのでしょうか。それもまた『瀧山寺縁起』によって知ることができます。平安時代末期、藤原氏の一族が額田郡を中心に勢力を拡大しました。この藤原氏は熱田神宮の大宮司を掌るようになったため、熱田大宮司家と呼ばれます。この熱田大宮司家藤原季範の子の長暹・祐範、孫の寛伝が瀧山寺に入りました。さらに季範の娘(由良御前)が源義朝に嫁ぎ、頼朝が生まれました。つまり頼朝と長暹・祐範は従兄弟、寛伝とは叔父・甥の関係にあたります。また祐範は伊豆に流刑となった頼朝を支援し、寛伝は頼朝の求めに応じ、日光山別当の座に就きました。こうした血縁関係を基にした頼朝と瀧山寺の有縁が、この像が祀られることとなった背景にあると考えられます。


所在地
岡崎市 Google Map
湯谷翔悟(岡崎市美術博物館)