島原藩主深溝松平家墓所東廟所(西より)

三河国額田郡深溝村を本貫地として松平惣領家や徳川家康を支えた深溝松平家歴代当主の墓域です。この墓所の始まりは5代松平忠利が慶長6年(1601)に深溝西郡藩に移封された際、本光寺を関東から深溝の地に戻し、初代から4代の墓を建立し、西廟所を造営してからです。西廟所から始まった松平家墓所ですが、忠利の墓所である肖影堂が建立された後、6代松平忠房の代に、墓域を東廟所に移すことになります。


6代松平忠房の墓

6代松平忠房の墓

この東廟所が近世大名墓において特異な例とされているのは、築かれている墓がすべて神社の社殿を模した石殿型墓標で造られていることです。駿河浅間神社の志貴氏から師事を受けるほど吉田神道への信仰が強かった忠房は、自身の墓標を神殿型に決めていたのでしょう。早くに亡くなった嫡男の墓を神殿型で建立し、また正室も遺言通り神道の葬儀を行い、遺骸の上に神殿型墓標を建立しました。忠房夫妻は藩祖夫妻でもあり、宗源宣旨を受けそれぞれ神(中心霊神・足嶋)になっている特別な存在でした。それゆえに、7代松平忠雄以降は、忠房が築いた墓所の在り方を大事に踏襲します。ただし、神にはならず、玉垣の模様も変えるなど、忠房の存在を侵さないように祭祀を継承したようです。


さて、江戸時代は前例を重んじます。6代忠房・7代忠雄と2代続けて江戸で亡くなった当主の埋葬はシステム化されましたが、8代松平忠俔は島原で亡くなりました。前例が無いため国許も江戸藩邸も大混乱に陥ります。他藩のように領内に墓所を築いて埋葬するという案が国許から藩邸に提案されましたが、藩邸の藩主一族等の方針により、5代の遺言でもある「主君何方ヘ処替アル共 尊骸ハ必当山ニ奉葬ヘキ」が守られたのです。


所在地
幸田町 Google Map
神取龍生(幸田町教育委員会生涯学習課)