明治用水旧頭首工(明治42年完成)の絵図


2016年11月、ICID(国際かんがい排水委員会)タイ王国チェンマイ第67回国際執行理事会にて明治用水が「世界かんがい施設遺産」に登録されました。

 現在、明治用水開削以前の碧海台地の様子を想像することができる者はそうはいないだろう。広大な台地が広がるこの地は、かつて「安城が原」「五ヶ野が原」と呼ばれる農業もできないやせ地であった。

 荒寥たる草野に用水開削が計画されたのは江戸末期のことである。和泉村の豪農 都築弥厚は矢作川の上流から水を引き、延々30kmに及ぶ水路によって台地を潤す大用水の開削を私財を投げ打って計画する。高棚村の和算家 石川喜平の協力を得て測量が始められたが困難を極め、5年の歳月をかけて測量図が完成するも弥厚は病没。彼の死とともに計画は挫折した。
 時代は明治へと移り、石井新田の岡本兵松によって弥厚の計画は蘇る。しかし、明治維新という時代の激変によって出願された用水計画は一向に日の目を見なかった。明治5年、愛知県が成立すると、同時期に矢作川右岸低地の排水と台地のかんがい計画を出願していた伊豫田与八郎の計画と一本化することでようやく許可が下りる。


都築弥厚

石川喜平

岡本兵松




 多くの先人たちの血のにじむ努力により明治13年、ついに明治用水は完成を見る。民間の着想と資金調達だけでこの歴史的大事業を成し遂げたことになる。不毛の土地として見放されてきた台地は「日本デンマーク」と呼ばれる優良農業地帯へと変貌していった。近年は工業用の水も取水することによって自動車関連産業も盛んになるなど、明治用水は地域発展の礎となっており、西三河にはなくてはならない水になっている。農業と工業、一見すると対立するかのように思われる二つに産業の繁栄を支えている、かけがえのない地域遺産である。
 水質を守るため、かつて人々が親しんだ水路はパイプライン化によって地下へともぐり、今はその流れを見ることはできない。私たちの皮膚の下を血管が回り、余すところなく血液を届けるように、西三河もまた明治用水という目には見えないラインで活かされている。安城市を中心に西三河地域の8市、受益面積約5,600haを潤している。早くから「水を使う者は自ら水をつくれ」という理念を掲げ、水源かん養林の経営や流域一体となった水質保全の取り組みに力を注いでいる。また、住宅街、JR、名鉄、国道など重要なライフラインの下を流れているため、万一の地震に備えて、震度7以上にも耐えられる耐震化対策工事を行なっている。


難工事を支えた人たち


取材協力
明治用水土地改良区