名鉄桜井駅から南に約2kmにある本證寺は、真宗大谷派の寺院で、山号を雲龍山という。鎌倉時代後期(13世紀末ころ)に、慶円によって創建された。15世紀後半には、浄土真宗の高田派から本願寺派(いわゆる一向宗)に転じ、後に上宮寺、勝鬘寺(いずれも岡崎市)とともに三河三か寺と呼ばれるようになる。そして16世紀前半には、今日まで一部が残る二重の堀と土塁が築かれ、外堀内(「寺内」)は守護不入(治外法権と租税免除)の地となっていた。また、こうした防御施設から城郭寺院とも呼ばれる。
永禄6年(1563)の三河一向一揆では、一説には守護不入権の侵犯が発端となり、本證寺は他の三河三か寺とともに領主の徳川家康と争った。翌年には、いったん和議が結ばれるが、家康から一方的に出された改宗命令を拒否したため、坊主衆は領国から追放となり、建物も破却されたと伝えられる。一揆の罪が赦免されたのは、約20年後のことになる。
江戸時代の本證寺は、他の三河三か寺とともに、本山(東本願寺)と末寺を結ぶ中本山、さらに領主や寺社奉行と配下の寺院とをつなぐ三河国触頭の役割を併せ持ち、強固な支配体制を有していた。また、この江戸時代を通じて、現在の寺観が形成されている。現存する建造物のうち最も古いものは本堂で、寛文3年(1663)の再建、そして写真にある鼓楼は宝暦10年(1760)に建てられた。他にも、鐘楼は元禄16年(1703)、裏門は18世紀前半、経蔵は文政6年(1823)、庫裏は文政13年(1830)のそれぞれ建造となる。
さて、今日の本證寺における代表的景観のハスだが、その起源は明らかではない。明治32年(1899)の「三河三ヶ寺野寺本證寺全図」に描かれていることから、少なくとも明治時代中ころには名物と認識されていたと考えられる。花の色も管理され、大門に向かって右側(北側)に白い花、左側(南側)が赤い花となっていた。しかし、平成6年(1994)を最後に姿を消してしまう。
平成22年(2009)から、地元のボランティア団体「本證寺ハスの会」が中心となり、原因と推定されたミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)などの外来生物の駆除を進めた。その後、いくつかの試行錯誤を重ねた結果、平成25年(2013)年には、ほぼ20年ぶりに大門両側に紅白のハスの復活に成功した。そして今年もまた、ハスは順調に生育している。
7月22日(日)には、2回目となる蓮見茶会(呈茶料200円)が開催される。ボランティアガイドによる史跡や建造物のガイドもあるので、ぜひお越しください。
※この記事は2018年07月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。