東本願寺開祖・教如上人の書院 家康と歴史的会談の舞台にも?


向島山浄照寺。

 真宗大谷派・東本願寺の開祖、教如上人は豊臣秀吉の圧力に折れ、本願寺(京都市)門主を弟の准如に譲った。教如は本願寺内に書院「北ノ御所」を建て、東本願寺を創立するまでの1592年から1602年まで住んでいる。
 1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康と反豊臣の教如は何度か会談している。史料では家康が訪れたのは本願寺とあるが、当時では北ノ御所しかないとみられている。浄土真宗・本願寺の東西分派を決めた歴史的な会談場所が、北ノ御所であったとの公算は大きい。
 その北ノ御所が、豊田市若林西町向屋敷の真宗大谷派浄照寺(渡邊真住職)に移築され、3月13日の法要で、新装となった本堂、書院とともに初披露された。


次の間から、左へ三の間、二の間へ。右は鏡の間。

一番奥にある一の間。違棚は筆返しになっている。

二の間から一の間へ。

北ノ御所前で、渡邊真住職。左側に書院・本堂がある。

桃山時代の数奇屋風書院

 桃山時代の数寄屋風書院である北ノ御所は、18世紀に本願寺から同じ京都市の大谷本廟に移築され、1970年頃、名古屋の資産家伊東富士丸氏の自宅に移築された。伊東氏の死後、引き受け先が決らず、取り壊し間際の2006年2月、浄照寺への移築が決った。伝統を大切にしているお寺ならと、豊田市から話を受けて決断した。
 当時、浄照寺は国登録文化財となった本堂、書院の改装準備を進めていた。書院を本堂寄りに移し、空いた場所に新しい書院を建てる予定だった。新書院に代えて、北ノ御所を移築することにしたのだ。

「不思議なご縁、残すことができてよかった」

 「タイミングもよかった。不思議なご縁を感じます」と渡邊住職は語る。2年半にわたり、6千万円をかけて、今年1月、移築が完了した。
 北ノ御所は、美しい反りを持つ入り母屋銅板ぶき。四方を廊下が巡り、八畳六間からなる。教如を一貫して支持した三河門徒。「この三河の地で、教如上人ゆかりの建物を残すことができてよかった。地域の財産として守っていきます」と渡邊住職は話している。

家康が北ノ御所を訪れたという1598年12月10日、1601年7月5日、同8月16日の月日に一般公開の予定。


所在地
豊田市・浄照寺 Google Map