髪際高(額の髪の生え際から足までの高さ)で測って8尺(約243㎝)となる丈六坐像です。
 もと三重県伊勢市の伊勢神宮内宮近くにあった菩提山神宮寺の旧本尊でした。同寺は、奈良時代、伊勢大神宮に建てられた大神宮寺の後身といい、平安時代後期に復興したものです。

 本像は寄木造で、木寄せの基本構造は院政期にあって丈六像によくあるものですが、特に京都大原三千院にある阿弥陀如来坐像と共通点の多いことは留意されます。こちらは久安4(1148)年の造立で、平安時代を代表する三尊像として国宝に指定されています。

 さて、本像の本体像内の銘記によれば、良仁が願主となり、長承3(1134)年に木造り、翌4(保延元)年に漆工(漆下地)、翌々保延2年に箔押しが行われたという本像の造立経過が知られます。また願主良仁の名の下にある保延2年7月5日の日付は完成の時を意味するといわれます。

 その後、菩提山神宮寺は弘長年中(1261~1264)に大火で金堂等一部を焼失し、宝暦10(1760)年に再建されました。下図から再建された伽藍の様子が伺えます。


江戸時代の菩提山神宮寺(「伊勢参宮名所図会」4、国文学研究資料館蔵)

江戸時代の菩提山神宮寺(「伊勢参宮名所図会」4、国文学研究資料館蔵)

 ところが、明治に入り、新政府は神仏判然令を発し、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。特に、明治2年(1869)に明治天皇の行幸を控えた伊勢神宮のお膝元、度会府管内は厳しく、府知事は宮川と五十鈴川の中間に位置する川内地区で仏葬の一切禁止を命じ、またこの地区の寺院に強く廃寺を迫りました。その結果、数か月のうちに宇治山田で109か寺が廃寺に追い込まれたといいます。

 こうした廃仏毀釈の風にさらされ、本像を含めた菩提山神宮寺の仏像仏具は廃棄寸前だったとみられます。しかし、漬物で名声を馳せていた大浜の角谷大十の計らいでこれらの仏像仏具が購われ、大浜に運ばれました。本像は、この時檀那寺の海徳寺に寄進され、同寺の本尊となったのです。現在、地元では「大浜大仏」と呼び親しまれています。また本像の脇立だった不動明王・毘沙門天立像は同寺門前の一行庵に、金剛力士立像は同寺山門に安置されています(共に県指定文化財)。

 このように本像は、数少ない平安時代後期の在銘丈六像の一つとしてだけでなく、菩提山神宮寺の本尊としての意義が大きく評価されています。また廃仏毀釈の風を超えて「渡海仏」として西三河の文化遺産に迎えられた文化財といえます。


所在地
碧南市 Google Map
豆田 誠路(碧南市教育委員会文化財課)