東条城跡 西尾市吉良町駮馬(伴野勝利撮影)

東条城跡 西尾市吉良町駮馬(伴野勝利撮影)


応仁の乱以降の情勢


 応仁元年(1467)より11年にわたって繰り広げられた応仁の乱では、西条吉良氏は東軍細川方、東条吉良氏は西軍山名方に与して互いに争ったと伝わるが、これは『三河軍記』などかなり後世の書物によるもので、実際のところはわからない。大乱当初吉良(東条)義藤は、仙洞御所を警固しており、また京都の吉良(西条)義真邸は戦火で焼失したようだが、詳細は不明である。ただし、この大乱が日本社会全体を変革させたのは事実であろう。
 明応2年(1493)、ときの管領細川政元が起こした一大クーデター、いわゆる明応の政変で吉良氏がどうかかわったか。その後も新将軍足利義遐(のち義高、義澄と改名)に出仕しているが、永正5年(1508)、足利義尹(義材の改名、のちの義稙)が将軍に復帰した際には吉良邸を仮御所とするなど旗幟を鮮明にしており、政変当時吉良氏はかなり政治的影響をうけたことであろう。
 この二つの歴史的大事件により将軍権威は失墜した。御一家(御三家)としての吉良氏の権威も想像に難くない。世は戦国時代へ突入していったのである。


浜松荘の支配と今川氏の侵攻


 吉良氏は南北朝時代初期より、観応の擾乱の際一時没収されたが本領吉良荘とともに重要な経済基盤である浜松荘を支配していた。浜松荘がある遠江国の守護職は十五世紀初頭より管領家である斯波氏がつとめていたが、これは権力を笠に着て今川氏から奪ったものであった。当然今川氏としては、遠州を奪われたという被害意識があったことだろう。
 吉良氏は浜松荘の経営に対し代官を派遣していたが、従者で代官の大河内氏と結んだ守護斯波氏と今川氏との間で、文亀元年(1501)から永正14年(1517)にかけて三度の戦いが行われ、その結果浜松荘は吉良氏の支配から離れることになった。


京都を離れる吉良氏

 足利尊氏が室町幕府を開基してから、吉良氏は在京を基本としていたが、文亀・永正の争乱で浜松荘を失う少し前の永正10年(1513)ころより京都での活動を辿ることができなくなる。おそらく将軍・幕府の権威失墜とともに在京をあきらめ、浜松荘の事態と合わせ在地経営に専念したのであろう。

吉良荘での二度の今川氏との対戦

 天文15年(1546)ころより吉良氏の分家である今川氏は三河国に侵攻し、やがて西三河の平野部は尾張の織田氏と駿河・遠江の今川氏という二大勢力の接点となった。誇り高き吉良氏は、分家の今川氏に従うことをよしとせず、浜松荘をとられた遺恨もあり織田氏と手を結ぶことになる。
 その結果、天文18年に吉良氏は今川義元の軍師太原崇孚(雪斎)に攻められるが、このときはすぐに降伏して許されたようだ。ところが、弘治元年(1555)になって吉良氏は再び今川氏に叛く。織田方の水野氏の軍勢を西尾城に駐留させ対抗したが、結局敗北した。その後弘治3年(1557)、西尾城へは今川氏の城番が配置されたのである。このことは、三河吉良氏の嫡流西条吉良氏が本貫地を失ったことを意味する。また、このときまでに吉良氏当主の吉良義安は今川領内の薮田(静岡県藤枝市)に移され今川氏の監視下に置かれた。
 この後、今川氏により吉良氏の当主に担がれ、東条城を宛がわれたのが義安の弟吉良義昭である。



中世吉良氏の没落


 今川氏の支配下となった吉良氏であったが永禄3年(1560)5月、今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にすると三河の形勢は一変する。松平元康(のちの徳川家康)は今川氏を離反し、三河統一を進めていくのである。
 当然、東条城の吉良義昭も攻撃の対象とされた。永禄4年9月、東条城の西、藤波畷一帯で松平方と吉良方の戦闘が繰り広げられた。吉良方では名将富永伴五郎忠元が城から討って出て多くの敵を倒すが、多勢に無勢、一族郎党討ち死にしたと伝えられる。ときに伴五郎25歳であったという。東条城は攻略され、義昭は城を出ることになる。


藤波畷古戦場 西尾市吉良町寺嶋・瀬戸

藤波畷古戦場 西尾市吉良町寺嶋・瀬戸

東条城から見た藤波畷古戦場

東条城から見た藤波畷古戦場


富永伴五郎一族討死の地 西尾市吉良町寺嶋

富永伴五郎一族討死の地 西尾市吉良町寺嶋


 永禄6年冬になると西三河では真宗門徒が決起し、松平家康を苦しめる。いわゆる三河一向一揆が勃発したのだが、この機に吉良義昭は反旗をひるがえす。一時東条城を奪回したようだが、時勢には逆らえなかった。永禄7年、再び松平方に屈服し、ここに足利一門の名族三河吉良氏は没落した。
ただし、誇り高き一族、その誇りを守った吉良一族は儀礼的秩序のもと、江戸幕府において高家として復活したのであった。〈了〉


西尾市史調査員

齋藤  俊幸