御菓子司上田屋は、矢作川下流の西尾市米津町渡場から目と鼻の先に店を構えている。創業の頃からここで営業してきた。この辺りはかつて矢作川水運の要の土場の一つで、多くの荷の積み降ろしがあり、江戸時代には西尾藩の役人が行き来をしていたことから、お茶とお菓子を出す茶店を開いたのが上田屋のはじまりだ。それ以来、ずっとこの地で営業している。
 残されたわずかな記録をたどると、創業は文政年間半ば頃(1820年代 江戸時代)らしいが特定は難しい。初代の太助は岡崎の上田屋という菓子屋で修行し、暖簾分けの形でこの地に店を開いた。三代目までは太助を襲名。現在店を運営しているのは、六代目の眸と七代目の満親子だ。初めて自分の名を名乗った四代目の三好は、眸の祖父にあたる。二代目以降も全員外で修行して技を磨き、店を発展させてきた。


座っているのが四代目の三好で、白い調理服姿が五代目の巧。年配の女性は三好の妻・たま。お菓子づくりは体に良いのか、みんな長寿だった。


ところが五代目の巧(眸の父)の時代に、店の存続が危ぶまれる大変な出来事が起こった。戦争である。巧は軍需工場に動員されたのち徴兵された。残った者で仕事を続けたくても、贅沢品と見なされたお菓子を作る材料など、全く手に入らなくなってしまった。全国の菓子職人が路頭に迷った苦しい時代である。
 巧の復員後も材料の入手は困難を極めたが、それでも終戦後2~3年経ってようやく店の再開にこぎ着けた。それからは四代目・五代目が力を合わせて慶弔用の和菓子を中心に菓子作りに精を出し、徐々に繁盛するようになっていった。


戦後から昭和の後半ぐらいまで使用した、お祝い用の落雁や練りものなどの型


繊細な細工の技術が求められる練りもの

看板商品の一つ「よねづばし」


眸が六代目を、そして満が七代目を名乗るようになったのは、それぞれ昭和40年、平成5年である。昔と変わらぬ伝統のお菓子もあるが、時とともに移り変わるものもある。時代のニーズを読みながら、眸は「よねづばし」(斬新な洋風和菓子)、満は「よねまん」(新しい食感の黒糖饅頭)というヒット商品をそれぞれ生み出した。「見て食べて、二度感動できるようなお菓子を作り続けたい。そのためには伝統の技の研磨や新しい技術の習得、そして情報収集が必要だ」と二人は語る。
 やがて八代目となる満の息子も、現在東京の学校で勉強中だ。学生のうちに友人をいっぱい作り、日本全国に職人仲間を持って、将来は情報交換をしながら切磋琢磨してほしいと、父と祖父は願っている。三世代でよく話すそうだが、話題はやっぱりお菓子のことだ。和菓子の原点を忘れずに、新しいものを三世代で創造していきたいという。老舗のチャレンジは続く。



御菓子司 上田屋

所在地
西尾市米津町里9 Google Map
電話番号
0563-57-3266
ウェブサイト
http://www.katch.ne.jp/~rty326/