百年以上前から西尾小学校の真ん前にあり、地域の人々にとって子どもの頃から慣れ親しんできた文具店、それが味岡本店である。
初代・味岡嘉三郎がこの地で文具店を開業したのが、大正2年(1912)のこと。嘉三郎は現在の社長、四代目・嘉孝の曽祖父に当たる人物で、明治39年に、当時幡豆郡西尾町肴町で雑貨の総合商社「丸丈」(鈴木家)から味岡家へ養子に入った。当初はその支店として小売からスタートしたのだ。
嘉三郎は戦時下に入った昭和13年に亡くなった。二代目となったのはその息子、嘉太郎である。だが嘉太郎は徴用され、眼を負傷して帰還した。怪我にもめげず商いに精を出し、配給制度の下で役を務めたのをきっかけに、昭和18年から卸売も手がけるようになった。戦中戦後で物がなかったことから、画板や空き缶を加工した筆洗い道具など、オリジナル製品を作って名古屋の中央問屋に納め、全国に販売された。だが嘉太郎は結局、眼の負傷が元で昭和23年、36歳の若さで亡くなってしまう。
嘉太郎の息子・嘉男はこの時まだ小学生。母の好子(嘉太郎の妻)が代表となり、それを嘉太郎の弟がサポートする形で事業は継承された。昭和27年には法人化(合資会社味岡文味堂)を果たし、翌28年にはスチール家具や事務機器の取り扱いに着手、そして30年には現在の合資会社味岡本店へと改名する。その翌年、高校を卒業した嘉男は大学進学を断念して入社。6年後の昭和37年、25歳の若さで三代目社長に就任した
柔軟な発想と行動力を持った嘉男は、斬新な経営で敏腕ぶりを発揮する。昭和56年に開業した、中部7県初の郊外型大型文具店「サン味岡」の成功はその一つ。三河という一地方において、都心部に引けを取らない専門店の出店を敢行したことは、経営改革にもつながった。また愛知文紙事務器卸協同組合でも長年理事を務め、業界を担う一員として活躍したのだ。
嘉男にとって人生最大の思い出は、仕入先(リコー)がバルセロナ・オリンピックのスポンサーになったことで現地へ見学に行くことができ、さよならパーティではサマランチ会長と並んで記念の写真まで撮れたことだ。それが地元メディアに掲載されたり、リコーグループ機関紙にて全国の販売店の中で初めてインタビューを受けたりと、幅広い活動で会社の知名度アップにも貢献した。さらに、取引先を招いて地元リゾートホテルで「感謝の集い」を開催したり、いち早くチャーター機で海外旅行優待を行うなど、ひらめきとサービス精神に満ちた企画を考えては実施。お客様に喜んでいただこうと一生懸命だった。こうして嘉男は45年間の長きに渡って代表を務め上げ、平成19年(創業95周年)、息子の嘉孝が四代目社長に就任した。
明るい兆しが見えにくいこれからの時代を、四代目は乗り越えていかねばならない。嘉孝は今、地に足のついたやり方で経営を進めている。時代が変わっても「お客様に喜ばれたい」という老舗の想いは、変わらず受け継がれている。
※この記事は2020年04月01日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。