西尾市幡豆地区の古墳


愛知こどもの国の広い園内には、4基の横穴式石室をもつ古墳が残っている。三河湾の眺めを楽しみながら古墳ウォークはいかがでしょう。


幡豆地区の古墳


 西尾市幡豆地区は、三ヶ根山を主峰とする山地が沿岸部まで迫っており、平地は沿岸部や小河川沿いに限られている。
 耕作には不利な地形条件でありながら、幡豆地区の丘陵上には、多数の古墳が分布しており、漁業や航海など海に関わる生業に携わった人々が古墳を築いたと考えられる。


中之郷古墳
お堂との間に石室の入口が開いている。


とうてい山古墳
公園として整備されている。


中之郷古墳


―古墳時代中期の沿岸地域の首長墳


 幡豆地区の古墳の中で最初に築かれた古墳は、西幡豆町の中之郷古墳である。この古墳は、名鉄西幡豆駅から南西に約500mの集落内に位置し、石室内に古くから観音像が祀られていたことから穴観音古墳とも呼ばれる。
 現在は、墳丘が削られているが、本来は墳長35mほどの帆立貝形古墳であった可能性が高く、幡豆地区最大の古墳である。吉良地区に古墳時代中期初めに築かれた正法寺古墳(墳長94mの前方後円墳)、岩場古墳(墳長30mの帆立貝形古墳)に次ぐ三河湾沿岸部を配下に治めた有力首長の墓と考えられている。
 中之郷古墳は、東海地方で最も早く北部九州系の横穴式石室を採用した古墳のひとつとして知られる。副葬品に初期の馬具を含み、石見型埴輪と呼ばれる珍しい形象埴輪を墳丘に並べるなど、海を渡って近畿の大王や九州の勢力とも交流をもった沿岸地域の首長像が想定される。


とうてい山古墳


―西三河最大級の横穴式石室


 古墳時代後期の6世紀半ばごろになると、これまで地域の最上位層に限られていた古墳づくりがより下位の階層まで拡大し、横穴式石室をもつ直径10m程度の小規模な円墳が多数築かれるようになる。
 とうてい山古墳はこの時期の幡豆地区最有力者の墓である。東幡豆小学校の北側に張りだした尾根の先端に築かれた直径約18mの円墳で、内部の横穴式石室は西尾市内最大規模を誇る。玄室は6畳間ほどの広大な空間を有し、石室内には佐久島産砂岩を用いた石棺が納められている。金銅装の馬具や刀剣類、多数の鉄鏃のほか、勾玉やガラス玉など豊富な副葬品が出土した。石室に用いられた巨大な石材からは、被葬者の勢力の大きさがうかがわれる。

「愛知こどもの国」の古墳



 愛知こどもの国のあさひが丘には、4基の後期古墳が所在しており、洲崎山古墳群と呼ばれている。こどもの国の造成工事に先立って、昭和45年末から46年にかけて発掘調査が行われた。このうち、2号墳は芝生広場に復元公開されているのでよく目立つが、そのほかの古墳は、調査後も現地にひっそりと保存されている。
 あさひが丘とゆうひが丘を結ぶ中央広場近くに位置するのが洲崎山1号墳である。1号墳は6世紀末ごろの築造で、古墳群のなかで最初に築かれた古墳である。
 洲崎山2号墳~4号墳は、7世紀半ばすぎに築かれた終末期古墳である。この時期になると、より標高の高い場所に古墳が築かれる場合が多く、いずれの古墳も標高100mを超える山上に位置している。
 7世紀半ばといえば、天智天皇や天武天皇が活躍した飛鳥時代で、国の体制が整備されつつあった時期にあたる。7世紀末までは盛んに古墳づくりが行われるが、8世紀(奈良時代)になるとほぼ古墳はつくられなくなる。律令制による行政制度が地方でも整い、古墳づくりは時代遅れになったのである。

洲崎山1号墳



中央広場からあさひが丘に向かう遊歩道沿いに天井石の失われた石室が残っている。南側にのびる羨道部から一段下がって長方形の玄室におりる構造が特徴である。


洲崎山2号墳



芝生広場の中に、石室をもつ古墳が復元されており、当時の古墳の姿がよくわかる。埋葬後、石室の入口は石を積んで締め切られた。


洲崎山3号墳



あさひが丘の最高所の頂上に位置する。石室内からは灰釉陶器の碗や壺が出土しており、平安時代初期に石室が再利用されたことがわかる。


洲崎山4号墳



3号墳から園路を南に下った斜面に石室が開口している。奥壁に向かって石室の幅が急に狭くなるのが終末期の横穴式石室の特色である。


※古墳からの出土品は愛知こどもの国中央管理棟の玄関ロビーに展示されている。


西尾市教育委員会学芸員

三田 敦司