時がゆっくりと流れていく
徳川氏発祥の地、松平郷にほど近い山里。持統上皇が命名されたと伝えられる花ぞの山(村積山)の麓に奥殿陣屋はある。ここに一万六千石の藩主であった奥殿藩の歴史と文化が静かに眠っている。
奥殿松平家の初代は真次で、二代将軍秀忠の家来として大阪の陣で活躍し寛永四年、大番頭に抜擢された。その後、上野国に領地を与えられたが、希望により三河の地に替えられ、二代乗次の時、大給藩となった。四代乗真の時、奥殿に陣屋を移して奥殿藩が誕生した。
奥殿陣屋には、表御殿、書院、藩主住居、地方役所、学問所、道場、代官士分等の住居など三十三棟が建ち並んでいたが、慶応三年、田野口城(のち竜岡城となる)の完成に伴い、藩の業務が信州佐久郡田野口村に移ってから、移築されたり取り壊されていった。昭和六十年に書院が現在地に移されて復元され、その後整備が進められて現在のような形となった。
時間がゆっくり流れていくような花園の里「奥殿陣屋」を、歴史と自然を感じながら歩いてみた。
書院の本庭は、古図にあたる池庭をモデルに、江戸初期の作風を生かした「蓬萊の庭」として復元されている。京都にも見ないと云われるほどの美しさをかもし出している。(❶)
古図に現存した金鳳亭と言う茶室があった。その名をいただき江戸初期の風格を生かし復元された「食事処金鳳亭」。ここから蓬萊の庭を見渡しながらの食事は、至福のひととき。(❷)
金鳳亭での食事は11時から2時半まで。旬の味・手作りの味が好評で、取材時はかも鍋1200円、五目釜めし1000円をいただいた。4~5月は竹の子ごはん800円、竹の子弁当1200円などが楽しめる。10名以上は予約が必要。
松平家の親藩として、初代真次から代々の藩主をまつる墓塔が立ち並ぶ。七代乗友の五男は裏千家十一世玄々斎宗室であり、八代乗尹の子、永井尚志は日本海軍の創設、大政奉還などに携わっている。最後の藩主である乗謨は、日本赤十字社の創設に尽力し、賞勲局総裁を努めるなど、幕末から明治にかけて活動している。(❸)
庭園の一角に「玄々斎宗室生誕碑」がひっそりと佇んでいる。茶道裏千家第十一代世玄々斎宗室は、文化七年、七代藩主乗友の五男として生まれた。明治維新の西欧化の波が日本古来の文化に襲いかかり、茶道も衰退の危機にあった時も、全国茶道界の代表として復興に尽力した近代茶道の祖と言われている。(❹)
「細川の岩間の苔も緑にて花その山に春風ぞ吹く」の古歌にもあるように、百花咲き乱れる園の再現を進めている「花ぞの苑」。界隈は郡界川と霞川に潤され、千三百余年の歴史を持つ花園の里。桜、ユキヤナギ、スイセン、バラ、あじさい、はぎ、もみじ、つばきなど四季折々に様々な花が咲き誇る。(❻)
花火の発祥は、一説に三河と言われている。徳川家康の鉄砲隊が故郷に戻り、火薬の平和利用に腐心したためである。この地方には、稲富流を元祖として、一光流、武田流、荻野流、熊野流など数々の流派が伝承されている。「花火資料室」には歴史を感じさせる大筒などが展示されている。(❼)
※この記事は2014年04月10日時点の情報を元にしています。現在とは内容が異なる場合がございます。