第一章では、家康公の産土神である六所神社、生誕地岡崎城、幼少期学問に励んだ法蔵寺を訪ねた。第二章(最終章)では、大樹寺・山中八幡宮・伊賀八幡宮・滝山東照宮を巡る。

大樹寺


大樹寺多宝塔

 永禄3年(1560)家康公19歳の時、桶狭間合戦により今川義元が討たれたため身の危険を感じ、大高城から大樹寺に逃れた。先祖の墓前で13代住職登誉上人に、自害すべく覚悟のほどを表わすと、上人の言葉は「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)「戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目」と訓し、悩める家康公を翻意させた。家康公はこの8文字を終生座右の銘とした。
 この時、家康公を追う野武士の一隊が大樹寺を囲んだが、寺僧の一人、祖洞和尚が、門のカンヌキを引き抜いて打って出て70人力で阿修羅の如く戦い、敵を退散せしめた。後に家康公は、このカンヌキを立志開運「貫木神」と命名。今も大樹寺に安置されている。
 家康公の人生観の確立と一代の危機を救った大樹寺は、家康公の遺令の一条に「位牌は三河大樹寺に祀るべきこと」とあるにより、徳川歴代将軍の等身大の位牌が安置されている。
 この大樹寺は、徳川将軍家の菩提寺として名高く、成道山松安院と号し、文明7年(1475)松平4代親忠(家康公から5代前の先祖)が創建した。



大樹寺本堂内陣

大樹寺本堂

家康公木像

大樹寺には、松平八代・徳川歴代将軍位牌が安置されている

大樹寺山門




山中八幡宮


山中八幡宮入り口の朱鳥居

山中八幡宮本殿

 永禄6年(1563)家康公22歳、「元康」を「家康」と改名することで今川氏との決別を内外に示したその年に、守護不入の既得権を侵されたとして一向宗(真宗)の三河三力寺の上宮寺、本證寺、勝鬘寺を拠点とした一向一揆が勃発し、門徒武士や農民に蜂起を呼びかけ、領主の家康公と戦った。三河一向一揆は、日本における政教分離のさきがけとなった事件であった。
 敷地内に「鳩が窟」と呼ばれる洞窟がある。一向一揆の戦いで家康公が敗れて逃げ隠れた洞窟と伝えられている。追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から鳩が2羽飛び立ったので「人のいるところに鳩などいる訳がない」といって通り過ぎ、家康公は難を免れたといわれている。その後、この洞窟は「鳩が窟」といわれ、このことにより山中八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった。
 山中八幡宮は、家康公の父・広忠が再興したといわれ、家康公初陣の際に必勝祈願した神社としても知られている。


鳩が窟(山中八幡宮敷地内)




伊賀八幡宮


伊賀八幡宮隨神門


 文明2年(1470)、伊賀八幡宮は、徳川家の先祖松平4代親忠が、松平家の子孫繁栄の守護神・氏の神として創建した。5年後に氏寺(菩提寺)として創建の大樹寺とともに、江戸時代にわたっても将軍家の厚い崇敬を受けた。大きな合戦の時、家康公は必ず守護神である伊賀八幡宮を参詣したといわれている。
 こんな逸話が伊賀八幡宮にある。桶狭間の合戦の時、今川勢が敗れて追手を逃れ、ようやく矢作川にたどり着いたが対岸へ渡る川瀬が見つからず迷っていたところ、一頭の鹿が現れた。伊賀八幡宮の神使に違いないとその鹿に従い、結果家康公は無事に対岸の大樹寺に入ることができたという。
 3代将軍家光が境内整備をした本殿・隨神門・神橋など、ほとんどが国の重要文化財となっている。


伊賀八幡宮神橋

伊賀八幡宮本殿




滝山東照宮


滝山東照宮社殿


 滝山東照宮は、徳川3代将軍家光によって正保2年(1645)~3年に建立された。滝山寺本堂よりも一段高いところにある。極彩色、金鍍飾金具の社殿は豪華を極め、久能山・日光とあわせて日本三大東照宮のひとつとされている。
 昭和28年(1953)に本殿をはじめ5棟が国の重要文化財に指定され、昭和44年(1969)に文化庁直営により社殿の大修理が行われた。本殿と拝殿の間に中門があるのが特徴で、極彩色の東照宮様式で建てられている社殿は、往時の徳川家の権勢を今に伝えている。


滝山寺本堂


取材場所
大樹寺・山中八幡宮・伊賀八幡宮・滝山東照宮 Google Map
参考サイト
岡崎市観光協会
http://okazaki-kanko.jp/