松平氏六代目の信忠は安城に分立した安城松平家三代目である。信忠は『三河物語』では暗愚の人で家臣が分裂して争ったとマイナスイメージが強いが、実際のところどうであったのだろうか。信忠の人物像に迫ってみたい。

左近蔵人佐、左近蔵人、蔵人佐

 信忠は延徳2年(1490)の生まれである。信忠の発給文書は文亀元年(1501)14歳から大永3年(1523)まで、8点確認されている。信忠は永正6年(1509)、碧南称名寺宛寄進状に「左近蔵人佐」、永正16年の岡崎岩津妙心寺宛寄進状では「左近蔵人」とそれぞれ肩書きの署名をしている。「左近蔵人佐」、「左近蔵人」は室町幕府を通じて朝廷から授かる正式な任官によるものでなく、私称であると考えられる。また、大永3年の明眼寺宛寄進状(妙源寺文書)には「蔵人佐」と肩書きの署名をしている。「蔵人」というのは天皇に近侍して宮中の大小、雑事をつかさどる蔵人所の職員をいうが、「蔵人佐」というのはそれを補佐するものという意味であろう。これも私称であろう。この「蔵人佐」で気になる点がある。家康が若い頃、岡崎に復帰したころに「蔵人佐」を称することである。家康の場合、曽祖父信忠に倣ったものであろうか。松平氏にとって「蔵人佐」が特別な意味があったかもしれない。

家臣分裂

 信忠が五代長忠から家督継承したのは文亀三年(1503)の頃と考えられている。「三河物語」は家督後の信忠について、信忠は松平家当主として必要な武辺・情け・慈悲の三つがいずれも欠けていたために、側近衆でも心を寄せる者がなく、家臣が分裂、弟である信定擁立派と信忠擁護派にわかれたことを記す。信定を立てる者は、「とても此の君は代を継ぐことは難しい、長親(長忠)の子であることなら信定でも同じである。信定を当主として信忠を家督からはずすべきである」と主張、信忠を立てるものは「長親(長忠)は、信定へ桜井の地を遣わされ、人も分け与えて、信忠へは惣領職としての安城の地を譲らせられ、奉公の者も多く付けられたので、たとえ、君が不器用でも、家臣各々が盛り立てるべきである」と主張したという。信忠は、松平一門を始め、譜代家臣の者まで自分に仕えぬならば隠居して清康に跡を譲らんと云って大浜郷に隠居したという。
 新行紀一氏は、『新編岡崎市史』で「三河物語」の記述は、次代の清康の功績を強調するためのもので全面的に信頼することはできないとする。同氏は松平郷に伝えられた「松平氏由緒書」に記された信忠の性格、「がうぎ」(強儀・豪儀)、神仏祭礼を行わず、仁義礼智といった徳目に従わなかったことなどに家臣離反の真相があるとしている。
 また、柴田顕正氏は『徳川家康とその周囲』のなかで、信忠が大樹寺に毎年執行の別時念仏を退転しないように沙汰したり、桑子の妙源寺や大浜の称名寺には田地山林を寄進している点からは「三河物語」が伝える無慈悲はあたらず、むしろ寛厚の性格でないかと主張されている。さらに、同氏は松平家中の分裂の理由には、父長忠の信定への偏愛があったことを記す。父長忠は家督を譲ったのちも隠然たる力をもち、寛厚の信忠ではなく、次男の信定を跡継ぎにしようとしたためであるという。


『松平信忠寄進状』永正16年9月7日(京都市・妙心寺蔵)


涅槃図のなかの信忠

 柴田顕正氏のいう信忠の寛厚、慈悲の性格を思わせるものに大樹寺に伝わる涅槃図がある。涅槃図というのは、釈尊が沙羅双樹のもとで入滅する姿、すなわち涅槃を描いたもので、中央に横臥する釈尊の周囲には十大弟子を始め諸天、諸菩薩などのほかあらゆる動物が泣き悲しむ光景が描かれている。大樹寺の涅槃図が特有なのは、その図中に信忠が自身の姿を描かせていることである。同図の右下に、法体の姿にて、釈尊の方を向くのでなく、同図を眺める我々に視線を向けて描かれている。こうした涅槃図のなかに、寄進者自身の姿が描かれることがたまにあるが、これは寄進者の仏に対する信仰心、功徳を願う心を反映したものである。大樹寺の涅槃図はまさに信忠の慈悲心を表現したものともいえよう。信忠法名の一つである「泰孝」の札が書き添えられている。

大浜との関係

 信忠は大永3年(1523)、家督を清康に譲渡したというから当主としての時代は20年間ほどになる。その間の出来事としては、永正三河の乱があるが、今川氏の撃退で活躍するのは前代当主の長忠であり、当主である信忠の存在は影が薄い。信忠の事績として寺院への保護のことは先述したが、なかでも大浜の称名寺については、文亀3年(1503)に条目を下したり、永正六年(1509)に土地を寄進、永正9年には三河大乱の戦死者を弔うために毎月16日に念仏供養するために土地五反を寄進している。称名寺について手厚い保護が与えられているが、このことは信忠の大浜との関係を示していよう。大浜の地は海上交通の要衝で、和田氏が「大浜道場」(称名寺)を庇護するなど勢力を持っていたが、応仁文明の乱前後に和田氏は没落、かわって勢力を伸ばした松平氏が大浜の地を入手したようである。信忠は「三河物語」によると、安城に居住していたが隠居後には大浜に移住したというから、信忠にとって大浜は特別の意味がある。信忠は享禄4年(1531)、大浜の称名寺にて死去したとされる。法名は安栖院殿泰孝道忠である。


岡崎市美術博物館 副館長

堀江 登志実